ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

信濃毎日新聞社文化部『大切な人をどう看取るのか 終末期医療とグリーフケア』を読む

 図書館から上記の本を借りて読みました。職業柄上記の類の本はわりに読んでいますが、今回この本の中でああそうだろうなと思った事がありました。
 それは200ページの中の30ページ以上を占める第二章です。目次には「食べること、生きることー胃ろうの選択、延命患者は幸せか」とあります。
 胃ろうは終末期の患者で嚥下障害がひどく、食べ物が口から入りにくくなった人に対して、胃に穴を開けてそこから栄養を直接入れる栄養法を指しています。
 私が茨城そして千葉に移ってからもずっとささやかなケアをして来た人の事が思い出されます。その人は逆流性胃炎があり、以前脳梗塞も起こしていて口が利けない人でした。食べ物が口からですと唾うくる液と共に、誤まって気管に詰まらせてしまい、ひどく咳き込む為、頻繁に肺炎を起こしていました。そこで見かねた息子さんが胃ろうの設置を主治医に頼んで造設してもらいました。それからの話はこの本に書いてある事とほぼ同様です。
 つまり上記目次にあるように、胃ろう造設を決めて(又は医者や家族から勧められて)延命患者は本当に幸せだったのだろうかという事です。この正面切った問題提起は、信濃毎日新聞社分化部が初めて行なったのではないかと個人的には思っています。
 患者と家族らがこれは医療ミスだと考えて、主治医に対し簡単に刑事訴訟を起こしてしまう、アメリカに似た風潮が増大している日本では、並の医者は自分と患者の安全の為「医療現場では、嚥下障害の患者に胃ろうをつくるのは普通のながれ。しかも家族の意向を確認せず、当然のようにつくっている」そうですが、そこに重大な問題があると私は思います。また患者本人が嫌がっているのに、家族らが無理して医者に頼みつくられせてしまうのも同様です。
 なぜでしょうか。いろいろ挙げられます。私がケアをしていた人の場合、胃ろうで嚥下障害はなくなるというのはとんでもない間違いでした。やはり逆流して気管に入り込み、肺炎を起こしてしまうのです。その危険性は口からの食事でそれを起こしてしまうのとあまり変わりなさそうです。
 次に胃ろうからの栄養注入の間、患者は相当自由を拘束されます。私がケアした人の場合、ベッドから車椅子に移され、終わるまでそのままの姿勢でいなければなりません。勿論床ずれの可能性がある為、体位交換は定期的に行なっていました。けれども車椅子では身動きとれません。造設前ベッドでは盛んに健常な右手を大きく動かし、表情も豊かだったのに、経管栄養になってからは押し込められた手を出して、自発的に動かす事もしなくなりました。気力を失いその時間帯に寝てしまう事もしばしばでした。要するにその人にとっての生活の質(=QOL)が相当低下してしまったという事です。この本でも長く続く経管栄養で泣き出す患者さんの事が触れられています。それを目撃した家族の方も、本人は決してそれで幸せではないと感じています。先のない末期患者で嚥下障害がひどくても、決して胃ろう造設は勧められません。いや絶対すべきではないと思っています。たとえ口から食べ、誤まって誤嚥してしまい肺炎になったとしても、結構抗生物質で叩く事も出来ます。それで駄目だったらその時が定まった終わりの時です。また私の母は中心静脈からの栄養補給で、次第に衰え亡くなりましたが、その方法でも良かったと思っています。
 神が人を創造された時、全ては完全でした。そして「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる(創世1:29)と神は言われました。人間は最初草食でしたが、その口に入るものは、舌の味覚によって大変美味しかったに違いありません。生涯を終える直前だってきっとそうでしょう。人は口から食べて亡くなるのが、最高の幸せと信じます。胃ろうは患者を「愚弄」しています。