ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

普天間・原発重なる構図

 2012年3月13日の朝日新聞に上記の題で、文化人類学者の北村毅氏が投稿していました。副題は「危険性直視しない社会の意識」となっています。
 北村氏は早大准教授として、長らく沖縄の戦争体験や米軍による占領の問題に取り組んで来た人です。
 沖縄は終戦直前の激戦地でした。勿論戦争で日本が敗北し、占領されるまでは普天間基地などというものは存在しませんでした。そこは広い丘陵地でサトウキビなどの栽培が盛んだったとあります。1945年4月米軍は沖縄本島に上陸した後すぐその場所を占拠して、2400メートルほどの滑走路を建設し、普天間飛行場として日本本土決戦に備えました。以後ずっとこの基地は存続し、その間様々な事故が生じています。その事故と飛行機の爆音に周辺の住民はずっと悩まされて来ました。そこは住宅の密集地なのです。

 私は2004年8月13日この基地の側を仲間の車で通過して北上し、伊江島の教会に向かっていました。そして次の日普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターが、沖縄国際大学に墜落炎上した事を知りました。教会に集っている人々が皆憤激していたのを良く覚えています。そのように普天間に近い位置からは、この基地問題がいかに切実か理解出来ます。
 ところが北村氏によると、国会議員たちが視察する場合、基地のある宜野湾市の嘉数高台という所を利用するそうです。そこは普天間基地を見渡せるわけですが、沖縄の人々は、彼らが俯瞰的に「上から目線」「他人事の目線」で眺めるだけで、「来た、見た、分かった」とカメラの前でポーズを決め、さっさと帰ってしまうと慨嘆しているそうです。
 そこで北村氏は「見ようとしなければ、それは意識の上では存在しない」と、大変重要な事を指摘しています。そして北村氏はそれが普天間基地問題だけでなく、昨年3月11日の東日本大震災における福島第一原発の問題も、構図が重なると言っています。つまり「社会は常に原発の危険に晒されていたのだが、大多数は(私も含め)見ようとはしてこなかった…それまでは『安全神話』を担保してくれる『原子力ムラ』の俯瞰的なまなざしを内面化することで、今そこにある危機を(見え)ないことにしてきたのである」という事です。
 ですから北村氏は、日本の社会は「見えないからといって、存在しない、関係ないものにはできない」筈と断言しています。
 同じ事が聖書でも言えます。イエス・キリストは群衆を目の前にして、弟子たちにこう言われました。
 「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである』」(マタイ13:14−15)。
 これを見ますと、ユダヤの群衆は、目の前におられるイエス・キリストとそのみことばを見たり聞いたりしていますが、実際には自己の救い主として真剣に向き合おうとしなかった為、意識の上では存在しなかった事になります。その心はかたくなだったので、悟って回心し、信じて救われる事がありませんでした。
 それは今日でも同じです。人々は目には見えないけれども実在し、今も救いの御手を差し伸べておられるキリストを、自分との関係で真摯に見詰め、受け入れようとはしません。キリストを見てはいるけれど、見えないという事です。皆様は如何ですか?