ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

3・11から7年。どう羽ばたくべきか

 「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない](イザヤ40:31)
 2011年3月11日午後2時46分から7年経ちました。私の通う教会では、双葉郡出身であろうと、いわき市出身であろうと、絶対に忘れられない日です。
 今年1月から福島の地方紙を止めて、久しぶり朝日新聞に戻りました。それで3月11日の1面トップは、何段で「東日本大震災から七年」になるのかと思っていたのですが、そうした大々的な記事はありませんでした。忘れるはずはなく、各ページに関連記事は勿論ありました。でもやたら1ページ(15段)の広告が多いです。「わたしの未来は、毎朝はじまる」なんてキャッチフレーズもありました。今読んでいる『原発プロパガンダ』から忖度すると、大手広告会社が作成した広告でしょう。もし「私の未来は全原発廃止からはじまる」なんて広告を出そうものなら、全広告を引き上げるなどという圧力がかかるので、広告収入の多い大手新聞社は尻込みしてしまうのです。

 それはさておき、2時から始まった3・11集会では、米国出身で双葉郡の町で教えていた人、双葉郡出身の人、いわき市に嫁いで来た人の3人が、当時どうであり、今はどう過ごしているのかを証しました。
 私はあくまで部外者であり、2年ほど前にいわき市に引っ越して来たばかりなので、凄く貴重な証でした。
 最初の米国出身の女性は教師でした。当日勿論経験した事もない地震に見舞われ、続く原発の水素爆発で、夜は灯りも消えて一人だけ、初めて目にする「避難」という言葉の意味が理解出来ず、どうしてよいか分からなくて、パニック状態だったようです。その後2〜3箇所避難先を変え、遂に米国に戻りました。しかし福島の事は諦め切れず、見知らぬ人からの励ましを受け、反対の親も折れたので、再び日本に戻って来ました。今は教会の礼拝では、ギターなどを用いて賛美しています。
 もう一人の男性は3・11の時はまだ信仰を持っておらず求道者でしたが、2箇所ほど強制避難させられた後、流浪の旅をしていた教会に合流し、会津に到着しました。そこの教会の温かいもてなしと、私たちの牧師のメッセージに感動して救いを得、最終的な旅先奥多摩で、一家6人揃って洗礼を受けました。その後単身赴任で九州に行きましたが、そこから新しい教会に戻り、今は礼拝の賛美を引っ張っています。教会近くに家も建て、子どもたちと一緒に進んで奉仕しています。原発中心地からいわきにも移って来ている会社で職を得ているのも幸いです。
 最後は大阪からいわき市に嫁いで来た女性です。3・11当時はまだ未信仰で、子育ての真っ最中。続く4・11の断層がむき出しになる大地震もあり、スーパーは食べ物が確保出来ませんでした。原発2号機の破壊で、放射能がいわきにも大量に降って来た為、子どもを守る為にも、とにかく大阪の実家へ避難。しかしなぜか再び福島に戻り、直ぐ近くにちょうど教会が流浪を終えて新会堂を建てたばかりだったので通うようになり、やがて信仰と洗礼を受けました。同じように礼拝や土曜日の賛美集会などで、思い切り賛美しています。牧師もいわきで救われる人が起こされた事で、改めて感動の涙をこぼしていました。
 結局3人は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩119:71)という聖書の言葉の真の証人となりました。それが集った全ての人々を感動させたのでした。
 振り返ると、それら全てが神の導きだったと思います。いわきは決して放射能の値が絶対安全と言えるレベルではありませんが、百数十二人にも膨れた教会の相当な数を、子どもたちが占めています。彼らは平日のプログラムにも、生き生きとして参加しています。きっと神が守ってくださっているのでしょう。
 しかし3・11による大試練から7年経過しても、信仰はなく求道もせず、避難先で悩んでいる人々は非常に多くいます。帰還できるのか、帰還しても安全なのか、以前の勝手知った人々と再会出来るのか、買い物や病院はどうなるのか等々、心の深い悩みが尽きません。
 私はそこにこそ神の出番があると確信します。そうした人々が聖書に、そして教会に導かれる事を希求します。