ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

放射能汚染の現代と汚染のなかった縄文時代

 「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」(ペテロ第一1:4)

 相馬への旅では、コモド・イン相馬の直ぐ近くに住む中学時代の友人宅を訪れた。

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 写真中央右手の巨大な杉の木と左手の柿などの果樹のある造園を含めた、広い面積の敷地だった。

 相馬中村藩の血筋を辿れる由緒ある家系らしい。彼は小学生の頃父親の転勤で、私が生まれ育った東京都杉並区のすぐ側に引っ越して来た。それで中学進学と共に、3年の時同じクラスになった次第である。

 写真を再度見て欲しい。杉の大木が目を引く。福島第一原発事故後、北北西の風に乗って放射能が飛んで来た。西の山側が汚染されたが、ひどかったのは南側原町区の西部。鹿島区でもセシウム134,137で大体年間1~5ミリシーベルト位か。それでこの鹿島区西部でも、一応除染作業はされたそうである。しかし友人の家の杉など、根本から2メートルの高さまで。その上は汚染されたままだという。だからつい億劫になって、杉が伸びてもそのまま放置で、もう手もつけられないほど高くなってしまったそうである。彼は奥さんと二人だけ。彼自身最近前立腺がんが見つかったとの事。ちなみに持参した線量計では毎時0.38マイクロシーベルト位。ちょっと高い。

 広い庭を脚立に乗って剪定したり、伐採するのは不可能に近い。ぼちぼちやると言っていた。勿論背後の山まで手付かずだろう。とにかく広い範囲で汚染の状態が続く。

 ところでこの友人の家から鹿島駅に向かい、4キロも行かないところを、真野川が蛇行しながら流れている。その河口の北側が南右田地区で、有名な鹿島の一本松があった所である。東日本大震災の時、この河口から津波が遡上し、西側の相当な地域を飲み込んだ。旅の帰りにここも見て来たが、周辺に家はあまり見られず、74号線を南に走らせると、海側に風力発電、道より西側にソーラー発電の装置が、たくさんあった。

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 この真野川を遡り、私がコモド・イン南相馬に行く時通った鹿島駅付近の267号線を過ぎると、その堤の西側にフレスコという大きなスーパーがあり、そこから歩いて直ぐのところに鷺内遺跡がある。

 昨年11月30日に新聞やテレビのニュースで、人々をあっと言わせた、縄文時代晩期のオニグルミの入った籠の出た遺跡である。

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  写真では川の右手にあたるが、もう遺跡そのものは無い。保育園だか幼稚園だか分からないが、それがこれから建設される。私はその現場が分からず、ちょっと残念だったが、カメラはその場所周辺を捉えていた。

 縄文時代晩期から弥生時代に入る頃、人々は次第に低地に移った。そこで洪水に出遭ったか、水が覆って堆積物は酸素を遮断した。その為にこの貴重な遺物が出土したのである。そうした低地帯での発見はラッキーとしか言いようがない。私が発掘に携わっていた頃眺めた地形は、先土器時代でも、縄文時代後期まででも、押し並べてなだらかな南斜面の一番高いところにあった。坂を下ったところに湧き水など、水を確保出来るところがある。

 この縄文時代晩期の遺跡に住んだ人々は、もう稲作を始めたのか、狩猟採集時代の伝統を引き継ぎ、クルミなどを集めていたのか、よく分からない。想像すれば何だか豊かな生活を送っていたように見える。夜は光が無いから真っ暗だけども。

 勿論当時放射能という、人為的なもの(自然に入るのは別にして)など無かった。食べ物でこれは1キロ何ベクレルなんて考える事もなかった。こういう汚染はなかったのである。

 神は良く知っておられる。この罪深い人間が行った広範囲な汚染を黙って見過ごすような事はされない。いつか全く汚れのない資産を、私たち信徒は受け継ぐであろう。そこに希望を置きたい。