ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

2011年3月以後の福島と沖縄ー類似点

「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です」(ロマ5:14)

 アダムはきたるべき方(イエス・キリスト)のひな型とある。ひな型は実物を小さくかたどって作ったものと定義されている。

 これを広く適用してみると、福島は琉球のひな型と言える。明治政府の廃藩置県政策で、琉球王国は解体され沖縄県となった。そして日本近代国家の枠組みの中に押し込まれた。沖縄は以来ずっと虐げられて来たと言える。その最たるものが米軍の占領政策によってもたらされている。辺野古問題では、政府の強行策との相乗効果で県民は蹂躙され、悲惨さを極めている。

 2004年8月12日初めて沖縄を訪問した。宜野湾市に近い恵みバプテスト教会に泊めさせてもらい、翌13日その牧師と共に、伊江島の友人宣教師を訪ねるべく、沖縄自動車道に乗った。普天間飛行場はあの近くだと牧師が教えてくれたが、周辺は住宅密集地だった。本部のフェリーターミナルに無事到着、伊江島に渡ったのである。それから数時間も経たないうちに、沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した。14日の朝その事を知らないまま、私は透明なブルーのさんご礁で泳いだ。2メートルの波が来れば、泥の吹き上がる福島の海とはわけが違う。凄く魅了されたのは言うまでもない。その後沖縄全体がこの事故に目を奪われた。私は基地問題の難しさを垣間見た思いだった。

 福島も同じような経過を辿っているといえるが、とりわけ第一原発事故以降、国の政策でやりたい放題の事をされ、生業はずたずたにされた。今後も沖縄と同じようになるだろう。方々に散らされた元住民は、完全に疎外されている。

 1月9日の福島民報論説では、福島と沖縄の類似点が述べられていた。沖縄では辺野古での新基地建設が民意の大半を占めているかと思ったら、相当な切り崩しを受けて、昨年の県知事選では、安倍政権支援の候補者が31万票、玉城知事39万票と、「民意は分かれた」のであった。知事の舵取りは、今後も紆余曲折の道を辿るだろう。

 一方福島はと言えば、各家族、隣近所、各自治体などは大きな絆で結び付いていた。それが原発事故で、原発から20キロ圏、30キロ圏、それ以外と、一律に同心円状の賠償が実施された為、それが良き古き福島を完全に分断してしまった。嫉妬や差別…ありとあらゆる人間の心の黒い沁み=罪が露呈し、8年目を迎えようとする今も、根強く残っている。いわき市双葉郡からの避難者が多い。直に話を聞ける。皆押し黙ったままで、ニュータウンでも、地元か双葉出身かで、新しい交流は芽生えない。思いが心の底に沈潜している。

 そんな状況下、教会は「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」(ペテロ第一3:8)という神のご命令に従うべく努めている。主イエス・キリストへの信仰という一点だけで、心を一つにしている。

 分裂の現況は教会にとっては、心を一つにする好機かもしれない。分裂は政権を利するだけである。力を尽くして、地域の連帯の為努力したい。