ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

阪神大震災と東日本大震災を経験して

「彼らは神の力をも、神が敵から贖い出してくださった日をも、覚えてはいなかった」(詩78:42)。

 新聞の記事を読みながら、阪神大震災からもう24年も過ぎたのだと感慨深かった。

 1995年1月17日午前5時、姫路市の北にある夢前町で大震災を経験した。その時の事を何と形容したらよいのか未だ分からない。とにかく西日本とりわけ大阪では、神奈川にいた時ほどの中規模な地震は無いものと信じられていた。

 だから5時46分まだ暗い中、何が起きたのだろうかと思った。さながら大きな削岩機が家の中に踏み込んで来て、掘削を始めたような音で始まった。そう、地震動とは何だか違う、あの騒々しい音だけであった。ダダダダ…それが何秒も続くので、もしかしたら地震?と思い、2階家だったから、当時一緒に暮らしていた母親と2階に移り、サッシ戸を開け、素早く着替えをし、二人で身構えていた。母親は1923年の大正大地震を経験しているから、パニック状態にはならなかった。

 その後である。強烈な横揺れが始まった。家は新築に近かったが、それが菱形に変形しているように感じた。長い時間(ほんとはあっという間だっただろうが)それが続き、もう1秒でも続いていたら、家が潰れるという状態だった。

 幸いそれが治まり、私たちは下に降りてラジオのニュースに耳を傾けていた。TVは当時なかったと記憶している。それから続々と流れて来るニュースを聴きながら、全く信じられない、戦慄すべき状況が起きたと分かった。たびたび出かけていた神戸市中央区では、軒並み大きなビルが傾いているし、平屋のキリスト教書店はそのままぺしゃんこになってしまった。

 阪神高速道路の崩壊は強烈な印象を残した。緊急増刊された朝日グラフなどは、ずっと取ってあった為、真っ先にそれを思い出す。

 それから16年後に東日本大震災を千葉県松戸市で経験した。自宅のマンションまでもう一足の、工業団地のところで強烈な揺れが始まった。これは明らかに大地震だと直感した。その工場のフェンスに掴まりながら、道に並ぶ電信柱の倒壊があり得るかと、冷静に見つめていた。それは阪神の経験があっての事だった。そういう体験の無い工場の若い女の従業員たちは、中から出て来て悲鳴を上げており、まさにパニックといったところだった。

 そして間もなく東電の福島第一原子力発電所で、あの悲惨な大事故が起きた事を知った。岩手・福島・茨城の大津波もさりながら、この原発事故が頭に焼き付いた。原発がどうして福島に?、放射能がどんな影響をもたらすのか?等々、生まれて以来全く考えた事もなかった。

 やはり朝日グラフなどの情報から、津波で壊滅状態になった上記3県の海沿いの町々の状況を、つぶさに見るのも初めての事だった。しかし歴史教科書から津波の恐ろしさは想像していたので、何よりも次々と爆発する福島原発の膨大なエネルギーに目を奪われていた。下写真は請戸地区。

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 それからである。原子力の歴史や理論を懸命に勉強し始めたのは。

 そして夢前では震災直後、姫路高槻間の道路が長く不通になり、応援活動が一切出来なかったので(三宮中心部に入れたのは、それから半年後であった)、東日本における今度の大規模な災害に対しては、何とか復興の支援が出来ないかと、祈り始めたのである。

 それから3年経過した2014年11月5日、大学時代の友人夫妻と共に、初めて南相馬市鹿島区まで、通行許可になった国道6号をひたすら北進してみた。そして南柚木の農家民宿に泊まって、主の夫妻から震災の事をいろいろ訊く事が出来たのである。もうその時は福島行きを確信していた。

 その後郡山で物件を探していて、大手の不動産屋から、福島出身とか、福島に勤め先があるという条件でないと、家は貸さないし、物件の売買もままならない事を知った。

 出来る限り福島を歩いてみた。そして二本松の除染作業で大怪我をして、失意のまま松戸に戻り、休養しながら、うつろな目で、パソコンを開き物件を見つめていた。

 その時今の勿来の物件が見つかったのである。同時に大熊の原発に一番近い教会が避難して、勿来から2駅目のところに引っ越して来ていたのも分かった。飛び上がらんばかりにびっくりして、もう半壊に近いその物件は見るのもそこそこ、営業マンの人にその教会まで連れて行ってもらったのである。不思議な導きだった。神がそうされたのだと信じた。

 そして引っ越しからまる3年が経過した。今は福島が第二の故郷、骨はそこに埋める覚悟である。