ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

バプテストとは

「さて、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」(マタイ3:5-6)。

 ブログ友だちののほさん=https://o-uiri.hatenablog.com/about

から紹介して頂いた『名画と読むイエス・キリストの物語』(中野京子著)は、のほさんが初心者向けと謙遜して言われるが、どうしてどうして絵画を添えた立派なキリスト伝である。一気に読める。降誕から昇天まで平易に解説した本は少ないので、お勧めだ。

 著者の中野さんはクリスチャンではない。この本はあくまで絵画鑑賞の為であると言う。しかし実に良く調べ、想像力豊かに一冊の本として纏めた。

 しかし信徒でなければ、誤りもある。そんな事であげつらうつもりは無い。

 ただ私が所属するのは「バプテスト教会」なので、それは一体カトリック?それともプロテスタント?と頻繁に訊かれるから、正しいところを述べてみたい。

 このバプテストの由来は、「洗礼者ヨハネ」から来ている。洗礼者は英語ではバプテスト、ギリシャ語ではバプティステースである。一般に「洗礼を授ける者」と訳されている。ゆえに私が救われた時の宣教師は「バプテストのヨハネ」とそのまま日本語で表していた。

 最新の新改訳2017では、いまだ「バプテスマヨハネ」と誤訳している。勘ぐると、プロテスタント諸派は、イエスに先立って遣わされたヨハネの肩書き「バプテスト」をあまり認めたくないのだろう。彼らは宗教改革の頃出たからである。私としては、バプテスト教会イエス・キリストがこのヨハネの弟子をご自分の弟子とし、存命中に設立されたと信じる。でも使徒行伝2章にある「ペンテコステの日」でも良いと思う。そのようにバプテスト教会の歴史は古い。

 このバプテストは厳密には「洗礼を授ける者」ではない。動詞バプティゾーは、あくまで「浸す」「沈める」という意味であるから、浸すという言葉を採って「浸礼者」と訳すべきである。故にその名詞「バプテスマ」は「浸す事」「浸礼」が妥当である。洗いきよめるという意味はない。

 なぜか?聖書を読めば、この浸礼を授ける場所は、必ず水が多くある所である。ヨハネは罪を悔い改めた者に、ヨルダン川で浸礼を授けた。以後の浸礼者も同様で、私が所属する教会は、会堂の説教壇の後ろにあるプールで、信仰告白した人を水に沈める。

 沈めたままではその人は死ぬ。だからこれはあくまで儀式であり、イエス・キリストが十字架で死なれた事を象徴している。次いで浸礼者はすぐ水から対象者を引き上げる。これはイエス・キリストの甦りの象徴で、対象者はそこから新たないのちに歩み出す事になる。バプテスト教会に所属し、イエス・キリストの栄光の為に、新たな一歩を始める。水に浸される事で、古い自分は死んだからである。

 中野氏はその点、著書の中で決定的な自己矛盾を犯してしまったと考える。「貝の器で水をすくい、告解者の頭にふりかけて、短い儀式は終わる」とあるが、それはカトリックなどが幼児洗礼を授ける為、後で都合よく振り掛ける儀式にしてしまったからである。しかし一方で「洗礼は水中でいったん死ぬことである」と、正しく述べている。

 他にも小さなミス、考えれば大きなミスも散見されるが、それは問わない。バプテスト教会の一員として、その意味を明確にしたかっただけである。