戊辰戦争の激戦地だった平、平潟を知らずにいた
「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです」(使徒3:17)。
戊辰戦争から150年という事は既に触れたが、高校で日本史を取り損ねたので、恥ずかしながら無知蒙昧である。福島で自分が見たものは、こんな歴史的背景があったのだと、今思い知らされる。
2015年11月14日、東京からバスでいわきまで、勿来の土地と家の購入契約の為に出かけた。その時駅から北側直ぐのところに平城址がある事を知った。写真下。
急いでいたので正面の坂を少し上り、一瞥したところ何も見つからないので、急いで引き返し、駅南の不動産屋に向ったのであった。その時点では城の本丸は私有地で、いわき市はそれ以後土地を買収し、都市公園として整備する事になった。
引っ越してから5ヶ月ほど経過して、近くの平潟港を視察して来た。勿来港と共に、全く初めて見たのだ。海は青く感動した。北茨城市にあるにもかかわらず、平潟港を拠点とした漁業は、原発事故でかなり試験操業を余儀なくされた。しかしやっと再開した。
海に面した崖には褶曲の地層がくっきり見える。聖書によれば、それはノアの洪水で形成されたものである。
東日本大震災当時、ここは6.7メートルほどの津波に襲われ、海に面した土地や家は壊滅状態に陥った。今もそうした爪痕を残している。
前述したが無知とは恐ろしいもので、実はこの平も平潟も、戊辰戦争では大激戦地だったのだ。
平潟は仙台藩が守っていた。そこに新政府軍の軍艦がやって来た。仙台藩は策略に気付かず、まんまと平潟を乗っ取られてしまった。
その為、列藩同盟軍は一旦退き、湯長谷城(ゆながやじょう、今も湯長谷町というのが存在する)で協議し、平潟奪回の為に進軍を開始した。仙台藩などは私の住む勿来町四沢の隣の関田から、勿来の関の切り通しを通って、平潟に向った。このあたりいつも歩いているので、感慨深いものがある。私はむしろ関田からこの切り通しに至るまでのところにあった、風船爆弾基地のほうに興味があって、以前書いた事がある。
しかし列藩同盟軍は平潟に到着する前に大敗してしまった。以後新政府軍は磐城平城へ容易に向う事が出来たのだった。教会へ行く時いつも通る植田町とか、添野町でも戦いはあった。
こうした歴史のある地を歩くのは、実に興味深い。次回は私の教会のすぐ近くにある泉城址を訪れるつもりだ。