ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

松川事件から70年

「先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう」(伝道1:11)

 2019年2月7日の福島民友は、福島大学が松川資料室にある松川事件関連資料を、ユネスコ世界記憶遺産に再申請すべく、その資料室の管理運営体制強化に乗り出した事を伝えた。2年前は申請が見送られていた。

 松川事件というのは、1949年旧国鉄東北本線福島市松川駅と、その一つ北の金谷川駅との間で列車が転覆し、先頭の蒸気機関車に乗っていた乗務員3人が死亡した事件である。

 当時私はまだ3歳、事件の事など分かる筈もなかったが、同じ年に起きた下山事件三鷹事件の新聞写真を見て、非常に恐ろしい思いをしていた。特に三鷹事件は生まれた家からわりに近く、写真の記憶は鮮明に残った。ちなみにずっと後、松戸に居た時、常磐線の北千住ー綾瀬間で起きた、当時の国鉄総裁下山氏の腕だけが写っている轢断死体は、ここにあったのだと感慨深かったが、3歳の時は恐怖に怯えた。

 松川事件では、国鉄組合員が多数逮捕され、福島地裁で5人が死刑、仙台高裁で4人が死刑という、重大な判決が下された。最高裁に至って、検察側が隠したメモが発覚し、被告全員のアリバイが証明された為、全員無罪となってそれが確定したのである。

 それは戦後最大の冤罪事件であった。その記録は福島大学に10万点ほどあり、資料の劣化などで整備が必須となった。当時を生きた庶民の記憶は、ほとんど薄れて来たので、その措置は当然である。

 ところで私は2015年1月29日、福島移住の為に、格好の物件を見つけ、その駅で降りた。

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 家庭菜園と福音の伝道をやりたかったので、それは良い土地と家だった。

 ところがである。案内してくれた不動産屋は法規の詳しい事を見落としていた。ここは僅か10センチほどの差で、北側の市街化区域と異なり、調整区域になっており、農業委員会が認める耕作者でないと駄目だった。下の写真物件の左後方が住宅地。

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 それについては、不動産屋と一緒に福島県庁まで行き、折衝を重ねた。福島移住を希望し、農業をやりたいと思っても、現状は農業委員会が認める確率は五分五分だった。

 それで諦めきれないところを、遂に諦め帰宅したのだった。後に現在の勿来の物件を買って移り住めたし、望む教会にも通う事が出来たので、これは神の摂理だと思った。

 この松川事件、訪問した当時は、北の金谷川駅に向かう大きなカーブで発生していた事など、知る由もなかった。類まれな冤罪事件として、永く保存し、記憶に留める必要があると思った。