ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

戦争経験者である歴史学者直木孝次郎氏の死

「その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために」(詩48:13)

 19年2月17日、古代史研究の直木孝次郎氏が亡くなった。100歳長寿を全うしたと言える。1919年(大正8年)生まれ、1941年太平洋戦争の年に、京都帝大の史学科に入学したが、戦局の悪化で翌々年繰上げ卒業を強いられ、43年10月土浦の海軍航空隊に入隊した。

 直木氏はここで徹底した過酷な軍国精神を叩き込まれたと推測する。いわゆる特攻作戦はまる1年後の事になるが、既に上官は「圧倒的に優勢な米軍に勝つためには、お前たちに死んでもらうより他はない、命を捨て敵機、敵艦に体当たりして戦えば、日本は必ず勝つ、と激しい口調で語った」という氏の回顧談があった。「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」という短歌は、その過程で生まれたものだろう。

 やがて米軍の空襲が激しくなり、1945年6月土浦海軍航空隊は壊滅的な打撃を受けたそうだ。「戦いに負けて日本はよくなれどそのため死にたる人の多さよ」という短歌は、その凄惨な経験によるもので、戦争の悲惨な結果を私たちに伝えている。

 それゆえ九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人になったのは、氏にとっては当然の事だっただろう。

 戦後直木氏は大学に戻って古代史研究を続け、私が学生の頃『日本の歴史-古代国家の成立』(中央公論社)を出した。貪るように読んだのを覚えている。もう忘れたが、有名な『日本古代国家の成立』等々、多数の本を上梓している。続日本紀などを通して、考古学にも影響を与える大きな業績を残した。

 一方私は大学4年の時全共闘に入ったが、日本史の講義は故遠藤元男氏が続けていた。やはり続日本紀の読解が主体で、新鮮な感動を与えていただけに、教室での講義中止の要求とか、学問とは何かといった根源的な質問に、氏は立ち往生し、答える事が出来なかった。1908年(明治41年)生まれ、直木氏より11年前である。私の父は1911年生まれ、横須賀の海軍へ応召したが、同僚の多くを戦艦大和で失ったと、戦後私に語った。

 だが遠藤氏は研究を通して、戦争の愚劣さを伝えていない。

 なので戦争体験者で憲法九条を守ろうとした直木氏のような貴重な人が、世を去ってしまったことは残念である。今これを改悪し、日本が戦争を再び出来るようにしようとする国家の根強い願望と宣伝があるだけに、余計そう思う。