ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

在日韓国・朝鮮人

「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって【主】の歌を歌えようか」(詩篇137:1~4)

 図書館から福岡安則著『在日韓国・朝鮮人』という本を借りて読んだ。前にも述べた事があるが、福岡氏は東大全共闘の一員だった。だから差別問題にしても、鋭い批評眼を持っている。1993年刊行の本だが、少しも古くはない。

 この本の後半は若い世代の彼らのアイデンティティについて、丹念に聞き取り調査した結果を述べている。

 私は在日韓国・朝鮮人という言い方に差別が潜んでいるのは分かっていたが、本の冒頭にかかげられた、日本人から非日本人までの8つの類型を考えた時、自分の無知を知らされ、大いに反省させられた。以下に挙げる。

1「日本民族の血」を引き、「日本文化」を内面化し、日本国籍をもっている人たち、いわゆる“純粋な日本人”

2「日本民族の血」を引き、「日本文化」を内面化しているが、外国籍の人たち、いわゆる「日系一世」等々

3「日本民族の血」を引き、日本国籍ももっているが、異文化を内面化している人たち、海外帰国子女など海外成長日本人

4「日本文化」を内面化し、日本国籍ももっているが、異民族の血を引いている人たち、いわゆる「帰化者」-日本で生まれ、民族教育を受けることなく成長した在日韓国・朝鮮人で、「帰化」により日本国籍を取得した人たち

*彼らは結婚という場面で日本人ではない者として扱われ。結婚を忌避されてしまう。

5「日本民族の血」を引いているが、異文化を内面化し、かつ、外国籍の人たち、いわゆる「日系三世」あるいは「中国残留孤児」

6「日本文化」は内面化しているが、異民族の血を引き、かつ、外国籍の人たち、つまり民族教育を受けていない「在日韓国・朝鮮人」の若者たち

日本国籍はもっているが、異民族の血を引き、かつ、独自の文化をもっている人たち、いわゆる「アイヌ民族

8異民族の血を引き、異文化を内面化し、かつ、外国籍の人たち、つまり“純粋な非日本人”としての「外国人」、いわゆる外国人-アジア諸国を主体とした「外国人労働者」たち

 福岡氏は「日本人」「非日本人」という両極の間には、切れ目のはっきりしない連続体が構成されると言う。その例が「琉球民族」、現在の沖縄県人である。彼らの話す言語「琉球語」は、“純粋な日本人”には理解出来ないからだ。

 かくて日本社会は「単一民族社会」ではなく、「同質的社会」でもなかった事が良く分かる。

 改めて在日韓国・朝鮮人の歴史を紐解いた時、私自身が見逃していた事実だが、朝鮮に対する日本の侵略は1910年の韓国併合からではく、1876年の「江華島条約」から始まったのである。以後日本に来た朝鮮人労働者の数は増加し、戦時下の1939年以降は強制的に連行・徴用され、過酷な労働に従事させられた。朝鮮人従軍慰安婦もその時生まれた。戦後生まれの私も、それは父親や戦前の新聞を通して知っていた。

 1945年日本の敗戦と共に、多くの朝鮮人たちが帰国したが、およそ5~60万人が日本に残ったという。

 戦後の日本政府も、彼らに対して理不尽な措置をとり続けて来た。ここで福岡氏は4つの基本的な政策モデルを提示している。

①人権の論理に基づく政策

②同化の論理に基づく政策

排除の論理に基づく政策

④抑圧の論理に基づく政策

 人権の論理とは、強制連行、従軍慰安婦などの問題に関する資料の保存、それに基づく心からの謝罪と補償参政権国籍選択の自由を認める事等々である。しかし事実はと言えば、日本政府はそれらを全て採択しなかった。現状を見ればそれが良く分かる。元徴用工への賠償命令問題などがそれだ。高慢で居丈高な政府は、戦後心からの謝罪をして来ただろうか?イエス「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12:33)と言われたが、隣人朝鮮人をまず心から愛し、彼らの益の為に心を尽くし、力を尽くすのは当然の事である。それがあってこそ、トラブル解決も円滑に進められるのだ。

 同化の論理とは、在日韓国朝鮮人に独自の民族意識を持たれてはまずいので、彼らが日本に留まる限りは、「帰化」により「日本人化」してもらうという事である。それにより本名の民族名でなく、日本名を通名として使ってもらう事だ。当然彼らの反発を招いている。

 排除の論理とは、韓国・朝鮮人は全て母国に帰ってもらうという事である。民族学校を保証し、そこで祖国に帰ろうという機運を作ってもらう事だが、それもうまく機能していない。 

 抑圧の論理とは、在日韓国・朝鮮人の存在は厄介だから、その人権を無視し続けるという事である。政府は彼らに対して基本的人権を認めないという立場を一貫して採っており、彼らの側の運動や、国際世論等々により、やっと「指紋押捺」が廃止されたなどの経緯がある。

 福岡氏による若い世代の人々からの聞き取り、特に在日三世などに関しては、その多様な反応について、詳しく語る紙数が尽きた。特に在日韓国・朝鮮人三世のアイデンティティとして、本名を公にするとか、隠すといった多様な姿勢が、この本から良く汲み取れる。自己中心的“純粋な日本人”の度し難い差別には、一貫して抗議の姿勢を貫きたい。クリスチャン人口の30パーセントを占める韓国の人々のほうが、心は遥かに豊かである。日本による弾圧が、かえって彼らの人口を増やした。1パーセント以下の日本については、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示3:17)というみことばが適用されるだろう。