ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

罪意識の欠如

「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です」

コンプライアンス=企業の「法令遵守」という言葉があるが、これは事実上死語だ。誰も厳密に遵守などしていない。特に大企業のトップがそうだから、まして下々はそうだ。それに人間の作った法律だから余計に不備がある。しかし全く真実である聖書の律法の基準で見ると、「すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:12)という事になる。

東電、日産、関電等々の不祥事は目に余るものがあるが、それを下々である私たちが批判したところで、何の益もない。ストレスが溜まるばかりで健康に良くない。

しかし東電元首脳ら、そして今度の関電首脳らの対応を見ていると、聖書で言う「罪の意識」が全く感じられない。当然と言えば当然だ。彼らに聖書とその信仰がないから。

ならば私たち信徒はどうか。良く引用される個所は「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです」(Ⅰヨハネ3:4)である。神の律法(=聖書全体)を無視する者、無法者である。ギリシャアノミーアは「無い事」+「律法」から成る言葉である。だから救われる前の私たちも皆、聖書のみことばが無かったわけで、無法者、不法者、違反者、律法を無視する者、律法に無知な者、背く者、破る者となる。それ故私たちは聖書を手にしてそれを読む時、初めて自分が罪深い者だと分かる。罪意識が生じる。それが信徒の共通認識である。

しかしそれだけでは救いにならない。私たちの罪を負って十字架で身代わりとして死んで下さったイエス・キリストを、その聖書のみことばから信じる事、その一点だけで救われる。一切行いに因らない。

大切なのはその事実を若い時に知る事である。経験からすれば、無法のまま大人になった人は、限りなく自己中心であり、高慢だから、聖書に向き合う事が難しい。

若ければ若いほど、心は柔軟だから素直に受け入れやすいのである。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道12:1)は真理である。

ここで間違ってはいけない事がある。それは救いをもたらすのが、私たちの説得とか勧誘などに一切関わりなく、神の賜物によるという事である。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。

なので私たちは神が言われた事、「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)を、誰にでも伝えたいと願うばかりである。救われた者は皆、この神の愛に立脚している。