ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

人間失格と信徒失格

「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」(詩篇1:1-3)。

信徒になってから久しぶり、太宰治の『斜陽』や『人間失格』を、文中に出て来る聖書の引用や、それと思われる個所に注目しながら読んでみた。
彼のファンならこれらの作品を称賛するかもしれない。
しかし私は読んだ後、暗い気持ちになるだけで、とても前を見詰めて歩く気分にならなかった。もう二度と太宰は読むまいと思った。例外は『走れメロス』くらいか。メロスとセリヌンティウスとの友情は、旧約のサムエル第一18:3に「ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ」とある如く、ダビデヨナタンとの友情を彷彿とさせるからだ。
なぜ太宰は自殺未遂をし、最後には玉川上水で本当に愛人と共に自殺してしまったのか?
ネットを見ればごまんと解説が載っている。けれども私は信徒として、『斜陽』と『人間失格』からそれぞれ、引用された聖句と、彼自身による神のイメージを取り上げれば、十分説明がつくと思っている。
「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい』(マタイ一〇ノ二十七~二十八)。
自分は神にさへ、おびえてゐました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じてゐるのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向ふ事のやうな気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです」。
共通しているのは神への恐れとおびえである。
彼は自分の罪深さを自覚していたが、その結果として、神の罰しか信じられなかった。良く聖書を読んでいたとは思うが、神の本質をつかむ事が出来なかった。
「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」(ヨハネ第一4:16)。ヨハネイエス・キリストとずっと共にいて、イエスのうちに神の愛という本質を見抜き、その証人となった。
太宰は罪に対する神の罰と審判、そしてゲヘナという場での永遠の滅びしか信じられなかった。だからいつも神を恐れ、神に怯えていた。
ところが彼が引用した聖句の「恐れる」という言葉には、別に畏敬するという意味がある。畏という言葉は鬼の頭と虎の爪から成るそうで、それは恐ろしい言葉かもしれない。しかし畏敬とか畏怖は、かしこまる事、敬服する事という意味もある。
「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」(黙示19:5)
この聖句は、ただ神を恐れ、怯えているだけなら説明がつかず、到底神を賛美する気にならない事を教えている。神のしもべらはここでは敬服しているのだ。
だから神を畏れる者は相手が優れていると尊敬するのである。それもまた神の御手によるものだから、心底相手を尊敬するなら、相手にも自然に分かる。
太宰は「自分には、あざむき合ってゐながら、清く明るく朗らかに生きてゐる、或日は生き得る自信を持ってゐるみたいな人間が難解なのです」と『人間失格』の中でつぶやくが、うわべだけのクリスチャンを揶揄していたのかもしれない。
それではこの自分はどうかと言うと、人間失格どころか、クリスチャン失格と言わざるを得ない。「さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです」(ローマ5:16)とあって、ひとたび神の恵みにより、私は義と認められたにもかかわらず、ますます罪深くなるばかりである。太宰をさばく資格など全く無い。
偉大な伝道者パウロもこの世に肉体を持って生きているうちは、「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」と告白し、「本当に惨めな人間です」とも言っている。
結局はその罪深さの中から、日々悔い改め、ますます唯一聖である方を畏敬し、内に住まう御霊に委ねるしかない。そうすれば御霊は「愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった実を与えて下さる。
太宰は偽善なクリスチャンばかり見ていたかもしれないが、本当に神を畏敬し、相手を尊敬し、へりくだって生きて行けば、御霊の実の一端を証する事が出来るだろう。