ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

孤軍奮闘した浪江町長

「【主】に私は身を避ける。どうしてあなたがたは私のたましいに言うのか。『鳥のように自分の山に飛んで行け』」。

今僕は上のものを目指し、先に向かって進んでいるが、10年前の事も忘れない。

その10年前浪江町はどういう状況だったのか。市の広報では福島第一原発から浪江町の一番近い所で約4キロ、役場まで約8キロ、そして問題となる津島までは約30キロとある。

朝日新聞の記者三浦英之著『白い土地』を読むと、情報が途絶えた中での避難の迷走ぶりが良く分かる。当時の浪江町長は馬場有(たもつ)氏。陣頭指揮をした後体調を崩し、三浦氏が取材要請をしてもしばらく実現しなかった。2014年に判明した胃がんは、おそらく悪性で腸への転移は早かったと推測する。けれども馬場氏自らの要請で、口述筆記が完全でなくても実現し、極めて貴重な記録となった。

2011年3月11日町長室で会議をしていた馬場は、強烈な地震に見舞われた。午後2時46分。それから7分経過した3時33分、庁舎の最上階で請戸港を凝視する馬場の目にどす黒い津波が入った。請戸地区は壊滅状態になった。

しかしその後全く想定外の福島第一原発事故が生じた。東電は国や県、そして大熊・双葉町に対して、4時時45分には通報を出していた。それを踏まえて国はその日の夜9時23分、一部の地域に避難勧告を出した。

しかし浪江町には当日国・県・東電から何の連絡も来なかった。特に東電は原発事故の時必ず直ぐ連絡を入れると約束したのに、全く音沙汰なしだった。これは今日でも良くわきまえておかなければならない重大な教訓である。一見信頼に値すると思われた相手が、意思疎通を図る事もせず、いとも簡単に約束を反故にする。今もそうだからだ。放射能汚染水を海洋に放出するという例は典型だが、他にも枚挙に暇が無い。

だからむしろ約束事は幻であり、「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)と心得ていたほうが確かである。さらに「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」(へブル10:23)と証された、唯一の真実な神だけがおられる事を銘記すべきだ。

結局浪江町民は何の情報もないまま、12日早朝西部の津島地区に避難する事になった。これはやむを得ない選択肢だったと思う。馬場はそこで陣頭指揮を執る。町民21,000人のうち、約8,000人が避難していた。その時点までに緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム=SPEEDIが多少とも活用出来た筈だが、それは非公開で馬場の元には届かなかった。

しかしその津島地区には12日の夕方防護服を着けた男が2人ワゴン車で来ていた。彼らはただ「ここは危ないから」とだけ言って去ったようだ。その事を聞いた馬場は、翌13日午後、自ら出向いて、十数人の防護服姿の男たちが、放射能を測定しているのに出会った。でも彼らは馬場の詰問に黙秘したまま、真相を伝える事をしなかった。

馬場は悲憤したが後の祭りで、3月15日さらに西の二本松市に移動する事を決断する。下の写真は東和地区農家民宿「ゆんた」と、沖縄から移住した仲里さん。

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二本松市東和の支所がそれだけの数の町民を受け入れてくれた。これはすごい事だったと思う。僕が福島移住の為、最も早い段階で訪れたのはこの東和地区だったし、移住の為の突破口となる除染での大怪我も、ここからすぐ近くで生じた。浪江町民が大挙してここに避難していたというのはずっと後で知った。市内の17ヶ所に避難所が設置された。さらに4月には二次避難所も追加された。二本松は意外に雪の深いところで、避難された方々はさぞ大変だったと思う。ちなみに浪江町の最新の広報によると、最終的には県内避難者約14,000人、県外約6,000人となっている。

3月下旬にやっと東電は「偵察隊」を二本松によこし、謝罪だけ繰り返して見舞金を渡そうとした。馬場がそれを拒否したのは言うまでもない。

そうした経緯から馬場の心は、そしてその身体も急速にむしばまれていったと思う。彼は「町民の辛苦を一身に背負ったように」、痩せ細り69歳で逝ってしまった。それは復活前の救い主イエス・キリストに重なる。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った‥」(イザヤ53:2-53:2-4)。

それと共に、私は悲惨な死で終わらず、三日目に復活したキリストに希望を託する。

また町民の為に心底尽力された馬場氏に心から敬意を表する。あの当時毀誉褒貶があったにしても。

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二本松市で使われたログハウスタイプの仮設住宅は、私が泊まった事のある「いこいの村なみえ」に移設され、今も生き続ける。上の写真はいこいの村なみえ。