ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

内田樹氏の「学ぶ力」を読んで考えた事

 2011年9月2日の内田樹の研究室サイト(http://blog.tatsuru.com/)で、内田先生は「学ぶ力」という題でブログを書いています。
 このサイト「お気に入り」に入れているので、時々覗きますが、内田先生の思考はいつもなるほどと思わせるものがあります。最近はその文体までまねしかかり、おっとっとと自分のスタイルに戻すのに懸命です。
 今回の「学ぶ力」も謙虚に師匠から学ぼうとする姿勢のある人々なら、是非読んで欲しいと思います。それは直ちに聖書の師匠イエス・キリストとその弟子たちの事を思い出させます。というか、それが昔からのあるべき姿だったと確信します。
 まず先生は最近日本の子どもたちの「学力」が低下したと言われている事に異議を唱えています。そして改めて「学力」とは何かについて、独自の定義づけをしています。学力という漢字を分解し訓読みをしたら「学ぶ力」になります。それで先生は「わたしは学力を『学ぶことができる力』、『学べる力』としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います」と言っています。なるほどその通りです。そして「『学ぶ』ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ『学力』という言葉を用いるべきではないでしょうか」と提言していますが、すごく大切だと思います。
 そこで内田先生は学ぶ力が伸びる為の三つの条件を提起します。
 第一は「自分には『まだまだ学ばなければならないことがたくさんある』という『学び足りなさ』の自覚があること」です。
 私はパウロに倣い、最大の望みは何かと問われた時「神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」(コロサイ1:10口語訳)と答えますが、そのパウロでさえ「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)と、底知れぬ神の知恵と知識に到底達する事の出来ない自分を慨嘆しています。これは私も全くそうで、30年も聖書を学んでいますが、まだ全く序の口といったところで、幾ら学んでも学び足りません。ところが世の中には「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人がゴマンといます。内田先生はそういう人々には学ぶ力がありませんとずばり言っています。それは「ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人」であって、私の周囲にも多くいます。だいたい学校の成績がトップだった人にその傾向があるようです。
 第二は「教えてくれる『師(先生)』を自ら見つけようとすること」です。主イエスの時代、学者・パリサイ人といった律法に通じた人々は、もはや師匠を求めませんでした。しかしイエスの弟子たちは一口では言えませんが、イエスという偉大な先生と出会い、これぞわが師と直感し、全てを捨てて従って行きました。イエスご自身もこれは弟子としてふさわしいと思う者たちを、ご自分を担う「器」として選ばれました。内田氏はその師(先生)が必ずしも「学校の先生である必要はありません」と述べ、その対象は書物でもよし、街行く人でもよしと言っています。
 第三は「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。「『お願いします』という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです」。これが大切です。諏訪哲二氏は高校で長らく教えた後、現在は教育問題について啓蒙する活動を行っていますが、『オレ様化する子どもたち』という本の中で、ほぼ内田先生と同じ考え方を示しています。親子関係で言えば、親に指導性があり、教師と生徒との関係では教育面で教師に指導性があるのですが、諏訪氏は教育が子どもたちに対する「贈与関係」から、今や市民社会的な「商品交換」関係に変貌している事を指摘し、教師は子どもの望むものを教えるという立場に貶められ、抗うと学級崩壊に至ってしまうと言っています。つまり子どもたちは「オレ様化」し、いばりくさっており、教師は教える気持ちが萎えてしまっています。イエスは「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」(マタイ10:24)と言っておられます。その師匠の権威は聖書的な背景のない日本で全く崩れ去っており、師を見上げる真剣なまなざしがなくなりました。でもそれは「罪」の増大の結果であり、今後良くなる事があり得ないのは、聖書の預言通りです。