ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

或る東電福島第一原発下請け作業員の癌死

 年の瀬も迫った12月21日、元東電福島第一原発下請け作業員だったNSさんが、前立腺癌の全身骨転移で亡くなりました。

 NSさんと知り合ったのは、僕が前立腺肥大手術の為常盤病院に入院した時、同じ部屋にいたからです。僕のベッドの反対側に寝ていて、担当の医師がたえず様子を伺いに来るので、状況がすぐ分かってしまいました。

 僕が病室に入った日の数日前だと思いますが、一回目の抗がん剤が投与されました。その為の副作用として髪の毛がどんどん抜けてゆく。これまで本などでその知識はありましたが、現場で見聞きしたのは初めての事です。
 その頃はまだ杖や歩行器を使ってトイレまで行く事が出来、骨転移による痛みを明確に伝える力がありました。

 僕は間もなく退院する事になり、コロナの事もあってほとんど会話も控えていたのですが、少なくも正確な名前と住所だけでも訊いておこうと思いました。

 驚いた事にメモに記されたNSさんの住所は、僕が現在住んでいるところの住所のうち、いわき市泉町滝尻まで共通、次の字(あざ)からだけが違っていました。

 それでNSさんも退院する日が近づき、僕は徒歩でNSさんのお家を探しました。15分位だったか直ぐ見つかりました。僕は何かお手伝い出来ないかと思ったのです。僕の家は教会付属の建物で、その中に食堂もあります。素敵なランチを作っており、まずはそれをお届けして、親しい友人関係を築きたいと考えた次第です。

 しかしNSさんはその頃から腰の激痛を訴え始めました。第二、第三腰椎の間に癌細胞が浸潤し、歩行器を使っても立ち上がれない状態になってゆきました。何回か訪れた時も、激痛がある為長い会話は出来なくなりました。いろいろ伺っておきたかった事がありましたが、今となっては不明のままです。

 NSさんは福島第一原発から最も近い地名の所で生まれ、正社員ではなく、下請けとして東電に長らく勤めていたようです。そこで結婚し、長男、長女をもうけ、彼自身は隣の富岡町の寮か何かに入居し、第一原発まで通っていました。定年で年金が出るようになる年にあと1年というところで、何らかの理由にて勤めを辞め、こちらのいわきに引っ越して来ました。長女もすぐ近くで結婚生活しており、長男はまだ独身ですが父親と同居し、懸命に働いていました。長女は週2回、父親の面倒を看る為通っていました。

 NSさんの最期が近づいた頃は、この長女との短い対話で、わずかな情報を得ただけです。僕はクリスマス集会の為のチラシ配布で忙しくなり、イブ集会が終わった次の日、急いで訪問したのですが、残念ながら葬儀社の花輪と通夜・告別式が簡単に記されたものが掲げられていただけでした。既に4日前死去していました。

 全く立ち上がれなくなる少し前、ごく短い対話で僕が質問したのは、あと何年位希望を持っていますかという事でした。最近の癌は発見が遅れた場合でも、その治療はだいぶ効果を表し、5年生存は当たり前、10年の生存も可能な時代となっています。

 NSさんも10年先を見込んでいました。僕は骨転移の状況からそれは無理だと思っていたのですが、あえて死の備えについて触れる事はありませんでした。激しい痛みの中で、それを問われるのは極めて辛い事だと想像したからです。しかし僕もいつか比較的自由な会話が出来る日は来るかもしれないとも考えていました。

 しかしNSさんはあっけなく逝ってしまいました。

 大震災の時、第一原発1号機の4階で作業していました。放射能より地震の方が怖かった、と彼は回想していました。

 たかだか40年位の原発での仕事でしたが、癌で亡くなりました。あれから11年も経過すると、もう原発での仕事とがんとの因果関係などといった議論は、ほとんどされなくなりました。僕は関係はあったと「信じて」います。

 実はNSさんの奥様も、いわきに共に来てから、癌で苦しみ抜いて亡くなりました。僕の住まいの隣のクリニックのお世話になっていたようです。

 まだ若く、人生百年と言われるようになった時代、あと40年は生きられる筈でした。何たる悲劇でしょうか。NSさんは住所が富岡町になっていました。その遺骨は生まれ故郷に近いお墓に葬られる事になったみたいです。

 聖書の伝道者の書には「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」とあります。

 「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」(伝道3:2)。

 人の死の時は神様が定めておられます。人はいくら努力しても、それに抗う事は出来ません。だからメメント・モリ=死を覚えよ、なのです。