ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

双葉郡視察の旅1

「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(ヨハネ20:8)

 19年5月1日と2日、福島県双葉郡の市町を視察する旅に行って来た。いわき市を越えて広野町楢葉町富岡町大熊町浪江町南相馬市小高区、原町区を見て来た。

 そこでまず広野町に出来たふたば未来学園中高一貫校の前身広野中学を見学した。あいにくの雨でしかも連休中だから、外からしか見えなかった。

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 この中高一貫校は、はじめ高等学校の開校から始まった。2015年4月の事である。上記写真は広野中学で、まずこの校舎を借りて授業が始まった。

 そして2019年4月、国道6号西にふたば未来学園中高一貫校が新たにスタートした。私はこの情報がネットから分からず、この広野中学の裏に建てられているものと思っていた。完全なミスである。お詫びしたい。

 この高校の開校経緯は、2011年3月11日の福島第一原発事故から始まる。

 双葉郡内には双葉高校、浪江高校、浪江高校津島校、富岡高校、双葉翔陽高校(*大熊町)という5つの県立高校があった。いずれも原発事故で、当初或いは今も帰還困難となっている。それで地理的に遠く離れた地で授業を再開していた(これをサテライト校と呼ぶ)。

 ところがこの5高は元の校舎での授業再開の目途が立たなくなり、2015年からの募集を停止した。私の教会にもそれらの高校を卒業した信徒がいて、いつかまた開かれる事を願っている。

 そしてそれに代わる高校として、このふたば未来学園高校が全く新しくオープンしたのである。同時にそこがふたば未来学園中高一貫校として、新たな場所で始める事が策定され、この4月からそれが実現した。そしてスーパーグローバルハイスクールとしての指定を受けたのである。文科省が国際的に活躍できる人材育成の為に決めた。英語のカタカナ語化で、官僚の得意とする名称である。イノベーションコーストと共に、直接日本語に訳せない、わけのわからない言葉で、いわゆる東大話法に属する。

 だからこのふたば未来学園中高は、イノベーションコーストとの密接な関係がある。その応援団の名前からも推察出来る。内堀福島県知事、小泉進次郎衆議院議員などなど。

 しかしこの中高の立地する場所は福島第一原発から30キロ圏内である。2015年当時はまだ千葉県にいたから、その是非が随分論じられていた。

 今は復興一色だから、そういう話題はほとんど無い。けれども東電第一原発は今廃炉過程にあり、この先数十年と続く。どんな事態が起こるか予測出来ない。私は国道6号で広野町を通過する時、ここは本当に安全なのかといつも思ってしまう。

 また高校長は「生徒が地域の人と協働して未来を向きながら未来を作っていく」と謳っているが、それでは文科省の掲げる国際的人材の育成とはちょっと違う。その役目は東大が担うから、お前らは地域の復興に寄与する者となれ、というのが本音ではないか。

 「寛容性」や「他者への理解・想像力」を育成すると言うが、その裏でこの4月「学校いじめ防止基本方針」なるものも作成されている。実に細かないじめの様態例が載っているが、それが現実だろう。この学園に限らず、いじめはどこでも生じており、その心の「罪」が解決されない限り、それはずっと続く。

 原発事故を巡るいじめは特に陰惨で、輝かしい未来なんてとても言えないだろう。むしろ名前を変えて、「双葉キリスト教学園中高一貫校」を設立したほうが、未来に繋がるし、生徒に希望が持てるはずだ。

*前のプロバイダーPCデポとの解約が成立したのはよかったが、逆にネットに繋がらない日が18日になり、次のプロバイダーでの工事を含め、再びネットに繋がるのは、6月くらいになりそう。なのでコメント頂いても、閲覧出来なくなるので返答出来ない。御寛恕を請う。

宗教行事と国の介入

王はこう言っていた。「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカドネツァル王よ、あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べるようになり、こうしてあなたの上を七つの時が過ぎ行き、ついにあなたは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」このことばは、ただちにネブカドネツァルの上に成就した…。(ダニエル4:30-33)

 日本国憲法における政教分離の原則は、第20条、第89条に記されている。

 20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。

 89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。

 思い出すのは昨年11月、秋篠宮が行った記者会見で言った言葉である。今年の11月に宮中祭祀として行われる新嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」との発言である。それは本来皇室の私的費用にあたる内廷費から拠出すべきである、という批判になる。「宗教行事と憲法との関係はどうなのかという時に、やはり内廷会計で行うべきだと思っています」(東京新聞サイト)。

 それは秋篠宮にとっては長年の持論だったようだが、マスコミは沈黙している。その時が近づけば、何らかのコメントはあるかもしれない。しかし私はこれは当然の事だと考える。

 怖いのは宮内庁をはじめ、政府関係者の対応である。既に宮内庁はこの提言に聞く耳を持たなかったと、秋篠宮は苦言を呈していた。安倍政権は憲法の問題を平気で踏みにじるから、「内廷費」どころか、公費にあたる宮廷費から出すつもりだ。額が違う。毎日新聞社説サイトから見ると、平成の新嘗祭は22億5,000万円が投じられた事から、今回もそれくらいの公費が拠出されるだろう。

 次は宮内庁が国に対して抵抗を示した場面である。福島民報が伝えた。

 新天皇即位に伴う皇居での一般参賀が、10連休中のうちの5月4日に行われた。実は宮内庁は10月22日の「即位礼正殿の儀」の後、この一般参賀を行う予定でいたそうだ。10連休中だと、公務や私的用事が入り始める時で、調整はすこぶる難しいと思ったからだ。それゆえ政権に対して抵抗した。しかし今度は国が聞く耳を持たなかったらしい。

 宮内庁政権が夏の参議院選を睨んでの事だと推測する。福島民報はよく踏み込んだ。その報道がなかったら、確かに連休の最中だと人々が来やすいからだ、と単純に考えていた。

 安倍政権は、この一般参賀の祝賀ムードにあやかり、人気回復して参議院選挙を楽勝で乗り切るつもりだったのだろう。

 私たち一般の人々にとって、政教分離の一線を越えるこんな暴挙に対しては、無力かもしれない。

 しかし聖書の神は全てご存じで、みこころの時に政権を倒される。上記聖書個所におけるバビロン王ネブカドネツアルの時もそうだった。

 彼は神を差し置いて自分の威光を輝かせようとした。新バビロン帝国はネブカドネツアルが位につくと、史上最強の専制君主となった。治世は45年間の長きにわたり、強権で高慢にも自分を拝ませようとした。誰も彼に口出し出来なかった。

 しかしそこで神が介入された。瞬時に彼の政権は倒された。

 私たち信徒はそこに希望を見出す。安倍政権は長くない。必ず倒される。

 

 

廃炉の監視強化

「その人は、獅子のように叫んだ。「主よ。私は昼はいつも見張り場に立ち、夜ごとに自分の物見のやぐらについています」(イザヤ21:8)

 19年4月4日の福島民報では、福島第一原発廃炉作業で、放射線監視体制の強化を報じていた。その理由は現在進行中の廃炉過程で避けられない溶融燃料の取り出しにおいて、「変動する」可能性があるからだ。県が独自で出したのは中性子の監視である。変動するとはあいまいな言葉だが、再臨界事故が起こるという事だろう。

 この中性子線で思い出すのが、1999年茨城県東海村で起きた臨界事故における中性子線などの大量放出である。核燃料加工施設があったJCO東海事業所でのずさんな核燃料製造工程で、中性子線を浴びた二人(一人は推定1~20シーベルト、もう一人は6~10シーベルト)が、想像を超えた苦しみの中で死亡した。その悲惨さはネットでも一部報道されているが、放射能被ばくの恐ろしさを、初めて私たちに銘記させた。

 当時私は茨城県鉾田町に住んでいて、ニュースからは、さほど遠く離れていない東海村での事故と知った。だから放射能のもたらす恐怖を身に感じていたわけだが、10年ほど経過して、福島第一原発事故が起こるまでは、少し忘れかけていたと思う。

 この中性子線観測強化では、中性子線検出器を、この年度でまず3台導入する。1つはロボットテストフィールド建設工事で、私が通せんぼされた南相馬市原町区萱浜、もう1つは福島第一原発の存在する大熊町夫沢、そして最後に私の通う教会の元の場所、大熊町大野である。東電は既に第一原発敷地内で中性子線を測定している。

 この廃炉過程におけるデブリ取り出しは、民報の表現では「世界に例のない困難な作業」となる。

 勿論そうだが、4月15日第一原発3号機の未使用・使用済み核燃料の取り出し作業が始まった。566体あるが、最初に未使用の7体を取り出してから、その後使用済みの549体という順序である。

 その作業はクレーンを使っての操作になるが、これまでしばしば不具合が生じて、ずっと延期になっていた。放射能が高いので、どうしても遠隔操作でそれを動かさなければならない。それがうまく行かず、延期延期となっていた。慎重な上にも慎重さが問われる作業だから、ここは東電の措置が正解だと思う。

 未使用だから安全かも知れないが、私たちが監視すべきは、あくまでこのクレーン操作である。仮に使用済み核燃料の取り出し作業が始まり、その最中に事故が生じて、それが落下したとすれば、やはり臨界事故となる可能性はあると思う。3・11東電事故とは比較にならないが、東海村の事故のように半径何百メートル圏内での避難勧告は出されるだろう。

 まして炉心溶融した格納容器で臨界を制御する手立ては失われているから、可能性は低いにしても再臨界を起こさないという保証はない。

 福島県いわき市では、回覧版の中に、経済産業省資源エネルギー庁が出している「廃炉の大切な話2019」というのがあって、各家庭に配られている。

 それを熟読しても、再臨界の可能性を絶対否定しているわけではない。限りなく低いといっても、「万が一、再臨界が起こったとしても、ホウ酸水を注入する設備により、核分裂を抑制する対策をとっています」とあった。

 人間と異なり、遠隔操作によるロボットが、そんな事態でてきぱきと動くのか。未曽有の事態を想定しない机上の案に過ぎないと思うが。

 

 

和暦と西暦

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」(Ⅰペテロ1:24-25)

 古川日出男という作家は、福島県郡山市出身で、地元の新聞ではよく登場するので、その名前を知っている人も多いと思う。

 19年4月16日、福島民報に連載中の記事に目が留まった。題は「和暦で時代問い直す」である。

 古川氏が原稿を書き始めたのは2015年の4月だという。「普段から西暦でモノを考えている」から、それが4年前というのはすぐ分かる。それを平成27年と言われると、即座には思い出せないそうだ。

 私も全くその通りで、生まれてから1989年の54歳になるまでは、昭和という和暦でも問題はなかった。しかし平成に変わってからは、多少認知症もあるのだと思うが、西暦と和暦の換算が出来なくなった。幼少の時から多感な青年時代までは、和暦のほうが、その時々の事を思い出すのに苦労しなかったから、馴染みがあった。

 2011年といえば、原発事故のあった年だが、それを和暦で言ってみよと言われても、手帳でも見ない限り、平成23年とは分からない。ゆえに昭和の時代の出来事は、和暦でも西暦でも両刀遣いが出来るが、平成の時代になってからは、それが出来ないから、完全に西暦で何事も覚えるようにしている。

 だからそこへまた和暦が変わると言っても、全然関心がない。

 古川氏も触れているが、西暦とは「イエス・キリストが生誕したとされる年」を紀元元年としている。紀元後何年というのはADで表す。ラテン語のanno Domini(=主の年に)から採択している。それに対して紀元前何年というのはBCで表し、英語でbefore Christ(=キリスト以前)となる。実際には聖書に登場するヘロデ王の時代の終わり頃、つまり紀元前4年頃というのが定説になっている。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った」(マタイ2:1)。

 それを考える時、古川氏が「元号はもちろんだけれども西暦だって宗教的なのだ」と言うのは正しい。私たち信徒にとっては、それはただの数字の羅列ではない。

 しかし古川氏はそうであるからこそ、和暦で時代を問い直すのは必要だと考える。昭和という過酷な戦争のあった時代を生きて来た体験者なら、それも一理あると思う。

 けれども古川氏が、それほどまでに西暦が日本人の間で浸透しているからには、決してキリスト教徒は少数派ではない、と推論するのには異を唱える。

 確かに4月21日行われたイースターの記念礼拝は、何それ?と思う人が大半だろう。でもクリスマスは皆でお祝いをするではないかと氏は言うが、人口1パーセント以下のキリスト教徒の見方では、その途方もない意義を分かっている未信徒は極めて少数だと確信する。模倣の得意な日本人のなせるわざだ。良い例としてXマスという表記がある。キリストの礼拝ではなく、未知の男の祝い?という、奇妙な祭りを表す造語である。

 だから伝統的な仏教や神道などに囲まれた日本人の一家庭で、誰か若い人(例外もあるが)がキリスト教を信じると言ったら、反対されるのは当然だ。それは古川氏の想像ではない。その宗教からキリスト教に変わった人々の証の多くは、その大変な問題に触れている。例外は牧師家庭の子だったとか、家が代々にわたる信徒だったという事例であろう。

 新元号に相当な人の関心が集まっているが、古川氏は様々な意見の中に「今後は西暦中心に日本の社会は進むと思う」という発言があった事を注目している。私としてはそれを望む。役所だって商売する人だって、元号が変わる事で厖大な経費がかかるだろう。消費税増税の騒ぎでもそれがすぐ理解出来る。無駄使いは避けるべきだ。

 

 

福島県は医師少数県

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マタイ9:12)

 2019年2月19日の福島民友サイトによると、厚生労働省が医師の偏在問題について、新たな指標を策定し、全国的な調査を行った結果として、どのようになったのかを報じていた。

 勿論東京都が医師の充足度トップ(指標329.0)であるが、私の関心は下位にある。厚生労働省は全国にある16県を少数県とした。

 そのうちの最下位から4番目(=44位)にあるのが福島県(指標177.4)だった。県によると、東日本大震災以前から福島県の医師数は少なく、厳しい状況を強いられていたという。

 さらに複数の市区町村が一括して指定される、「2次医療圏」というものに関しても調査がされた。福島県はそのうちの少数区域に相当し、「会津・南会津」(指標142.3)、「県南」(指標133.0)「相双」(指標91.7)の3区域が目立って低かった。比較の為に全国の最の区域を見ると、「北秋田」が指標69.6だった。

 相双区域は原発の近くで、避難指示が出た為、当然低くなっている。

 では私の住むいわき市はと言えば、指標156.1である。福島県で最大の人口数があるのに、これでは医師少数区域と言われても仕方がない。

 現市長は内郷御厩町に2018年12月25日オープンした、いわき市医療センターの巨大な建物を誇るが、総合病院としては他に呉羽総合病院、いわき湯本病院がある程度である。私の周囲には、それらの病院に詳しい人が何人かいるが、通院にしても入院にしても、相当難儀している。入院の予約が数か月先という事で諦めて他の府県に紹介状を持って行った人がいる。

 一方専門病院ないしはクリニックにしても、名が知られているなら、予約を取っても待ち時間が異常に長い。やっと診察を受け、会計を済ませて薬局という事になれば、やはり半日以上を見ておかねばならない。

 私は糖尿病専門医をかかりつけにしているが、すべて終えて帰宅すると、もうくたくたである。下の写真はいわき病院

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 独立行政法人いわき病院は、いわき市豊間にあって結構不便だったが、最近小名浜に移転して業務を再開した。交通の便が良くなったので、外来・入院とも相当待たなければならない。私の場合かかりつけ医から紹介状をもらってというだけでは駄目で、病院とクリニックとの間のやり取りがあって、初めて外来予約がとれる。それは3か月後の6月になった。

 脳神経内科やリハビリなどが優れており、教会の友人は最新のロボットによるリハビリの様子を、スマホで見せてくれた。私の足のふらつきは高血糖によるサルコペニアという病気(膝から下の骨格筋が極端に減っている)に関わっていると思う。しかし昨年猛暑の夏の最中歩き回っていて、気が付かないうちに熱中症となり、脳に何らかのダメージを与えたのではないかという懸念もあるから、CTなどで調べてもらうつもりでいる。

 いわき市の優れた病院やクリニックの状況はそんなものだ。まして放射能汚染を受けた双葉郡は、まだまだ線量の高いところが多く、若い医師は敬遠するだろう。

  そこは医師の数が絶対的に不足するから、帰還した高齢者の悩みは切実である。

 医療に恵まれない過疎地域の医療に、進んで挺身する気概をもった医師を育てる、という自治医科大学の理念は、今どうなっているのだろう。そんな気概を持った医者が少数となる事は、今の入試制度を見てもわかる。つまり面接等による適正の如何によらず、ただ偏差値が高いという事だけで入学した医者の卵がいっぱいだからだ。しかも目指すは高額の給与。白い巨塔は今も厳然と存在し、自分だけが偉い、自分の大学だけが優秀だという、自己中心の医者が再生産されている。

 福島で原発事故による甲状腺がんが増えたかどうかという問題一つとっても解決は難しく、地道に疫学調査をするような医者が、もっともっと必要だと思うが。

 福島復興を大声で言うからには、双葉郡にたくさん病院やクリニックを作って欲しい。富岡町にふたば医療センター附属病院が出来たからといって、それでおしまいでは復興にならない。加齢による病気や怪我は、私が通う教会でもめっきり多くなった。

想定外を想定しない訓練

「 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう](イザヤ64:3)

 2019年4月13日の新聞記事によると、横浜市磯子区でトラブルの通報を受け、対応に当たった男の巡査部長(37歳)が、仲裁に入ろうとした時拳銃を奪われ、一発が発砲されたという。

 幸いにもこの発砲でけが人は出なかった。拳銃を奪った男は容疑を認めているという。プロの暴力団員でなくて良かった。その為この巡査部長の無防備ぶりが露わになった。

 どうしてそうなるのか?やはり普段からの訓練の中で、想定外を想定していなかった為と思われる。

 拳銃を所持する警察官としては、それが奪われたら凶器となる事を十分承知しているはず。だから平素の防御の訓練として、相手がこう攻撃したら、こう自分を守るというマニュアルのようなものが頭に入っているだろう。こう出たら、こうするというのは想定内だ。

 しかしこの警官はその一歩先には踏み込まなかった。想定内の枠組みでしか物事を考えなかった。

 けれども事態はそんな生易しいものではない。相手がどう攻撃してくるかは、実際にはわからない。それゆえこれまで培われて来た経験だけでなく、動物的勘がないと対処出来ない。

 人間にも動物にも生存本能があると思う(これは神学的にも、心理学的にも一筋縄で行かない、難しい問題ではある)。

 思い出すのは加賀乙彦氏の小説『宣告』である。死刑囚を題材にしたものだが、その時に至ると、従容と刑場に向かわなかった男がいる。自分が凶悪な犯罪を犯したのに、いざ自分の番となると、生存本能が働き、ロープの手前で激しく暴れ出す。刑務官は一人では対応出来ず、複数の刑務官で抑え込み、無理やりロープに吊るす。まさに動物的本能がむき出しになった場面だ。

 とにかく危機的局面で、人間がどう行動するか、完全には分からない。予測出来ない。その事を良く教えてくれたのが、内田樹と光岡英稔の対談を収めた『荒天の武学』である。光岡氏は武道家だが、極めて幅広い知識を持ち、良く知られた評論家の内田樹氏と対決して、一歩も引けをとらない。2012年の発刊だが、今なお新鮮である。

 その光岡氏によると、現代の若い人たち(上記巡査部長もそう)は、危険などに対する感覚が鈍っているそうである。「シミュレーション上で物事を解決するものだとずっと教育されてきているし、ネットの中の出来事もすべて想定内のことばかりだから、その範囲で物事を解決する。その通りやっておけば大丈夫だというような幻想が共有されています」とずばり。男が拳銃を奪いに来ても、「『法が私を守ってくれる』とか、そういう期待のレベルで身の安全が確保されると思える…」。動物的な勘が鈍っている。しかも柔道などで鍛え、少し自信を持っているからこそ、想定内で何とかなると考え、状況に合わせられないそうだ。当然拳銃は奪われるだろうし、ナイフを持っていたら、きっと刺されただろう。

 この両者がしばしば触れている原発事故についても言える。高さ15・7メートルの津波は想定外だったのか。既に裁判の過程で明らかになっているように、そういう計算をし、報告した技術者がいた。ならば今刑事裁判の被告になっている元会長、2人の副社長は、そういう事を想定内に入れて原発事故を防ぐべきだった。彼らは上記の若い人の世代ではない。 多くの修羅場をくぐってきた実績がある。当然それを怠った責任は問われるのだ。

 だが彼らは想定外だったので責任はないとうそぶく。聖書に「 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは【主】に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。【主】よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。』(Ⅱサムエル24:10)とある。

 ダビデは王として優れた能力を持っていた。しかし聖書の神、主は彼の罪をも露わにする。彼は「良心のとがめ」を感じたのだ。そしてその咎めを赦して下さいと、神に祈った。聖書に立脚している人なら、日々「良心のとがめ」を感じる。そして悔い改める。

 東電の3被告は、あくまで無罪を主張する。彼らの良心はマヒしている。国の息のかかった裁判官なら、当然無罪にするだろう。しかしいつも言う事だが、最終的には全てを知っている神が裁く。それに委ねる。

 けれども想定外を除外する典型例がこの3被告だから、今の空気が「みんなで守ろう想定内」という風潮になっている事にも、責任の一端はあるはず。ひいてはこの国を極めて脆弱なものとするに違いない。

 

 

津波による浸水想定区域と防潮堤・防災林

「あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました」(詩42:7)

 2019年3月20日福島県は、東日本大震災のうち津波被害が大きかった沿岸部の10市町全域に対して、津波浸水想定区域図を公表した。福島民報にも大々的に載った。

 それに先立ち2月26日、政府の地震調査委員会は、今後30年間に日本海溝沿いで地震が起こる確率などを公表した。

 福島県では東日本大震災で、想定外となったM9・0超巨大地震が発生した。その後の調査で、M9クラスの発生確率はほぼゼロとなった。しかし日本海溝沿いにある青森・岩手・宮城・福島・茨城の各県別に見ると、福島県沖ではM7~7・5の地震が起こる確率は、50パーセントに引き上げられた。従来の10パーセントから5倍になり、危険度のランクは最も高くなったという。

 これを受けて県内の市町村は避難計画や訓練を一層強化する事になった。浜通りでは勿論津波対策だが、東電などの電力会社の場合、再稼働を早くしたいという思惑があるから、原発防災対策には消極的だという。

 その後の3月20日福島県津波の浸水想定区域を、具体的な図で示して公表した。それは東日本大震災級のM9が生じた場合を想定し、且つ海岸堤防や防災緑地などの対策を踏まえた上での地図だった。いろいろな条件を入力しての試算だが、津波浸水面積の図を見ると、3・11の時より3割は上回る面積となった。

 確かに3・11級の地震発生確率はゼロだから、この浸水区域はM7級では縮小されるだろう。しかし県の関係市町村ではこの結果を踏まえ、想定外であろうと津波対策の見直しが急務であると、危機感を募らせているという。

 私が住むいわき市勿来町では、自宅のところは大丈夫だが、歩いて10分の海岸では、浸水深さ2~5メートルに達する。高くなって海の見えない防潮堤を乗り越えての場合であろう。現実味はないにしても、この想定外を想定した地図作りは評価されると考える。つまり平素からその準備を真剣にしておくべきだという事だ。

 でも改めて思ったのは、自然を破壊し、浜通りを一変させるような防潮堤を建設した事、南相馬市雫地区で天皇・皇后も出席した海岸防災林作り、いわき市豊間の防災緑地など一連の対策は、いったいどんな意味を持ったのかという素朴な疑問である。

 それらによって、人命を救う効果は多少あると思うが、果たしてどうなのだろう。神が造られた自然を破壊し、机上で作成した防災設備建設の膨大な浪費、神はどう裁かれるだろう?