ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

鳥賀陽(うがや)弘道『原発難民』を読んで1

 鳥賀陽氏は1963年生まれとありますから49歳ですか、まだ若いです。京都大学を出て朝日新聞に長く勤めたあと、現在フリーのジャーナリストになっています。この本執筆の為、精力的に福島被災地のルポを行っていますから、相当被爆されたと思います。線量計を持参しての事ですから、毎時何ミリシーベルトと記載されたページから分かります。内部被ばくからがん発生まで20年と言われていますが、それを承知の上の事なのでしょう。目的は「原発災害によって住民が受けた被害を、住民の視点から報告し、記録すること」とありました。非常に多く発生した原発難民の声をじかに聞いて記録に留める、これが鳥賀陽氏の使命感でした。これまで出されていたこうした類の本については、実際原発で働いていた人が書いたものが散見される程度でした。
 ちなみに鳥賀陽氏は3・11の時記者として東京に居た時、「死が視野の片隅に入ったときに感じる本能的な恐怖」を抱きましたが、ルポの時点では時折線量計が非常に高い値を示した時に恐怖を感じても、実際難民の人々の中に飛び込んで、その人々の大量被ばくを思うと、そんな事は言っていられなくなりました。
 私がこの本を図書館で借りて読み始めた瞬間から、鳥賀陽氏が実に適切に原発汚染地域を回り、現地住民の生の声を拾い上げている事が分かりました。登場人物一人一人の発言に付箋を置いたら、もう全てのページが無視出来ないという位になりました。しかもです。この新書の終わりに近づくに連れて、新事実が次から次へと現れ、遂に238ページ全てを注意深く読む結果になりました。繰り返しますが、終わりに近づくと注意力は散漫になるものですが、この本にはそれが全く許されないほど重要な事柄が最後にいっぱい詰まっていました。それを2回に分けてエントリーします。
 まず「はじめに」で、氏は福島が原発事故以来1年半近く経過しているのに、放射能の影響が顕在して来る以前に、既に深刻な被害が出ている事を述べ、それを羅列しています。1意志に反して家や故郷を追われ、その地で長年培ってきた歴史や文化が失われた。2家族や友人、地域などのコミュニティに分断と対立が生まれた。3家族がばらばらに住まざるをえなくなった。4避難者とそうでない人のあいだに偏見、差別、対立が生まれた。5長期間の避難生活で心身が疲弊し、健康を維持できなくなった。6経済的に逼迫した。
 これが第一章以下で明確に示されています。まず第一原発から3キロの双葉郡双葉町です。そこに住み、そこを追われた小島さんが5時間だけ帰宅を許されたので同行します。

 しかし氏が見た双葉町は完全にゴーストタウン化していました。1号機が爆発し、放射性物質が牡丹雪のように降下して来たと小島さんは言っています。しかしバスの手配がなく、逃げ遅れた人々は相当量の放射能被爆をしました。鼻血や脱毛の人々が見られました。双葉町は復興の第一歩も踏み出せないでいます。児島さんは現在郡山市に避難しています。ですからこの5時間だけの一時帰宅から戻ると、肉体的にも精神的にもひどく疲れたと言っています。「こうやって、自分の家を去って、知らない町(*郡山)に帰る。いったい何をしているんだろうなと思います…こっちは何も進んでいないのに、ものすごく取り残されているというか、無視されているような気になります」。
 第二章は南相馬市です。強制避難の20キロ圏、それから30キロ圏までの旧屋内退避区域、そしてその外の何の指定もない区域と3分割され、補償があるのは20キロ圏以内ですから、そこに深刻な市民同士の分断と対立が生じました。

 特に中間地帯と呼ばれる20〜30キロ圏の人々はひどい目に会いました。お金のある人々だけが遠く避難する事が出来ました。しかしその幸運な人々も行き先の山形県では露骨な差別を受けました。放射能が移る、マスクをして、婚約解消…。それはひどいものでした。それが出来なくて残留している人々の上にも放射能は降って来ます。一番西に近い所に住む私の友人も、南相馬市役所にいた事があったので、調整に苦労しうつ病になりましたが、最近やっと少し元気になったと言っています。しかし毎日計測している線量は、年間に換算してゆうに1ミリシーベルトを超えています。第三章にも出て来ますが、中間地帯では店がほとんど閉まっており、そこの住民はまさ「兵糧攻め」の苦境に陥ったそうです。しかも後で鳥賀陽氏自ら測定した結果も含め、実際には毎時2〜4マイクロシーベルト以上あり、20キロ圏以内よりも線量が高い地域が多くありました。これは線引きが全く意味をなさなかった証拠です。米沢に避難している木幡さんの苦悩は大きいです。「帰れるものなら帰りたい。しかし、放射能が怖い…子どもたちのことを考えると、ためらわざるをえない」。
 将来が見えない不安に皆悶々としてこの帰宅―避難の問いをむなしく繰り返しています。
 第三章は主として飯館村です。福島原発2号機の爆発で生じた放射能は、3月15日から飯館村に容赦なく降り注ぎました。緊急に避難すべきでしたが、政府からの勧告がなく、皆大量の被爆をしてしまいました。

 そのあと4月に政府は全村避難を決定したのです。あらゆる場所で毎時10マイクロシーベルトを超えていたと言われています。そして2年で除染、帰村を目指す村長と、6割以上の退避派住民との間で、南相馬市と同じような感情的対立が生じてしまいました。菅野村長の話。「黙っていたら、国は何かしてくれますか?生活の保障をしてくれますか?くれません」だから「二年という目標を立てて努力」するという事です。でも高度な放射能汚染状態の村では、避難ー帰村に関する妥協点が全く見出されないのです。村長が笛吹けども、村では今後の青写真はまだ全く描けていません。
 朝日新聞11月19日の新連載「民主主義ここから」で、南相馬市に住む詩人若松丈太郎氏は、「3・11は広範囲に影響が及ぶ核による災害、『核災』ではないか。日本という国は形の上では民主主義を採り入れながら、実際には主権者の国民を棄民する。私たちは核災棄民だ」と言っています。的確な言葉です。福島から大量に生じた難民は、まさに「核災棄民」となりつつあります。私たちはこの事実を絶対に忘れてはならないのです。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
 「こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」(マタイ11:17)。