ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

広野町高野病院院長の死

 「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテ第二4:7)。
 2016年12月30日、福島県広野町高野病院院長宅で出火、男性一人が焼死体で見つかったというニュースは私を驚愕させました。それが震災時から避難せず、診療を続けていた高野英男氏(81歳)ではないかという恐れがあったからです。
 やきもきしながら、その後のユースを追いかけていたのですが、DNA鑑定まで含めなかなか結果が出て来ません。4日後の2017年1月3日やっと本人である事が判明しました。
 ネットの情報を見ますと、2011年3月11日の東日本大震災では、半径20キロ圏内(大熊・双葉・富岡・浪江・南相馬)に7つの病院があって、いずれも避難せざるを得なくなり、修羅場を経験する事になりました。

 そうした中、半径22キロほどの所にある双葉郡広野町の高野病院は、町の全体が緊急時避難準備区域に指定され、町民が避難したものの、医師や職員が逃げずに医療を続けて来た事で、良く知られていました。当時テレビで報じられたかどうか分かりませんが、私は新聞などの記事でずっと記憶していました。
 その為かねてより広野町の現状視察を考えていたので、悪天候が予想される中、早目に行ってみようと決め、1月7日に車で出ました。

 土曜日だったので、私の住むいわき市勿来町からほぼ1時間で高野病院に着きました。地名は広野町大字下北迫(しもきたば)、南になだらかに落ちて行く高台にあり、下を北迫川が流れています。右の写真の中央左に海が見え、震災の地図ではその海から津波が北迫川を遡上し、西にある常磐線を越えて国道6号まで達したようです。

 福島民報によると、3・11当時病院には100人を越える入院患者がいましたが、高野院長は「患者の病状悪化を考慮して避難しないと決断。その後も双葉郡唯一の病院として診療を続けてきた」のです。専門は精神科でしたが、神経内科、内科、消化器内科と4つの科をこなし、CT検査も行い、敷地内に住んで週数回の当直もしました。写真左の案内に載っている非常勤医師の一人は、超人的な働きぶりだったと評価しています。
 病院玄関を入ったところに、院長を囲む人々の集合写真がありました。逆光でうまく撮れませんでしたが、掲載しておきます。

 人柄が偲ばれるような良い集合写真でした。
 こんな献身的な働きをした高野院長の事ですから、続く院長兼常勤医がなかなか決まらず、1月12日やっと都立駒込病院の医師が、とりあえず二ヶ月という事で就任します。4月以後の医師を募り、募金活動が懸命にされていますが、専門に特化した医師では、高野院長のような働きぶりは難しそうです。『救命センターからの手紙』で知られた浜辺祐一医師のような、何でもこなせる人が応募してくれるとよいのですが。

 一方残りの時間で広野町役場や二つ沼総合公園、6号沿いの新興住宅地なども視察して来ました。町はこの1月避難指示解除から5年になったばかりですが、春までに人口を8割まで戻したいと願っています。しかし国道西側ではすぐ山が迫っており、若者たちがそんな山中にどんどん進出するような状況ではありません。この春広野町の除染作業を終え定年退職する隣の友人に訊いても、8割なんてとても信じられないという答えでした。現在は5割強のようです。若者たちの為にいろいろなイベントがされてはいますが。