ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大堀相馬焼の窯元はもう戻って来られない

 「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」(詩137:1)。
 2016年8月2日の福島民報記事から、福島県双葉郡浪江町大堀相馬焼という独特な陶器がある事を知りました。
 相馬焼とあるので、窯元は相馬市にあるのだと思っていました。実は浪江町の大堀地区にありました。でも全く関係ないわけでなく、ウイキなどで調べると、およそ300年前の江戸時代では、浜通りの北部は中村藩が統治していて、藩主は13代にわたり相馬氏でした。有名な相馬の野馬追は、相馬氏の祖と言われる平将門が野生馬を放し、敵兵に見たてて軍事訓練をしたことに始まると言われています。

 その相馬藩の半谷休閑という人が、浪江町の大堀地区で陶土(大堀粘土)を発見して、陶器作りを始めたのがきっかけみたいです。左図は浪江町のホームページから借用。

 それで大堀相馬焼というわけですが、特徴が3つあります。右図はネットからユーチューブの画面をキャッチしたもの。
 1二種類以上の熱膨張の異なる釉薬をかけることにより出来る「青ひび」
 2内側と外側で2つの器を重ねる「二重焼(ふたえやき)」の構造 
 3狩野派の筆法といわれる「走り駒」の絵
 青ひびは窯出しで、ひび割れを器全体に広げ、地模様とする為だそうです。二重焼は熱いお茶を入れて手に持っても、熱さが手に伝わらないようにする為です。走り駒は大堀相馬焼独特のもので、走る馬の絵を描く事です。相馬野馬追に通じるものです。焼成した器に絵を描くのは、紙に書くよりずっと難しいそうです。
 こうした特色ある大堀相馬焼は、国の伝統的工芸品の指定を受けています。
 しかし東日本大震災で登り窯は倒壊し、作品もほとんど壊れてしまったようです。さらに福島第一原発から10キロ圏内だったので、窯元は全て強制退去となり、二本松市いわき市福島市郡山市などに移りました。窯も陶器も片付ける事が出来ませんでした。

 私は今回その一つを訪問しました。そして応援の為湯呑を二つ買いました。すぐ入手出来るとは思ってもみなかったので、とても感動しました。二重焼の工夫が手にとってみると良く分かります。左写真で下半分に見える三つの穴から二重構造が分かります。
 浪江町はこの4月から帰還困難区域を除き、避難指示解除になります。しかしその中にあって、大堀地区は帰還困難のまま残ります。政府は双葉郡の帰還困難区域に復興拠点を設け、除染で指定解除にする方針でいますが、そこにこの大堀地区も含まれているのかどうか。ウイキの情報では「釉薬の原料となる砥山石が原発事故の放射能汚染により採掘不可能となり」とありました。実際陶器師に伺ってみても分かりましたが、もう浪江から散った地域で同じ釉薬を手に入れる事は出来ません。もはや窯元が浪江に戻る事は二度とないのではないかと思います。復興拠点=特区は年間20ミリシーベルトになりそうな所です。年間1ミリシーベルトが本来の基準でしたが。そんな事実は地元の新聞にも載らなくなりました。
 6年目を迎えようとしているのに、いまだ生業を原発で奪われ、大変な目に遭っている人々がいるという事実を、忘れないようにしたいものです。また帰還困難区域で除染など作業をしていて、相当な被ばくをしている人々の事もです。