ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

アーミッシュの生活

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」(ローマ15:1-2)。

アーミッシュキリスト教の中ではバプテストに属する。かつてヨーロッパ大陸ではアナ・バプテストとも呼ばれ、聖書的に正しいバプテスマ(浸礼=水への浸し‥イエス・キリストの死、埋葬、甦りを象徴する儀式。イエスが模範を示された)を受けなかった他教派の人が教会に加わる時は、もう一度バプテスマを受けさせられたので、その名がある。だから頭に水を灌ぐ礼(灌水礼)、頭に水を付けるだけの礼(滴礼)を行っていたローマ・カトリックから迫害され、新大陸アメリカに渡り現在に至っている。3年前の統計で人口約32万に達した。

彼らは始祖ヤコブ・アマンの名を採ってアーミッシュと呼ばれるようになった。徹底した聖書に基づく生活を送っており、乗り物は馬車、各教区にある学校は8年制で高校・大学など無し、電気製品の制限、派手な服装の禁止など大きな特徴を持つ、農耕・牧畜を主体とする自給自足の共同体である。

特異に見えるかもしれないが、聖書個所を開くと納得するし、もし僕がアメリカに渡ったとすればこの派に所属したいと思う。アーミッシュは戦争を支持せず兵役を拒否しているからだ。かつて僕はアメリカ南部のバプテスト教会宣教師から浸礼を受けたが、実際渡米してみると、牧師も信徒も米国の正義を信じる狂信的な好戦家たちばかりだった。狂信的と言えば、彼らは1611年英国で翻訳された欽定訳だけが聖書であって、他の聖書を使う者はクリスチャンではないと断定している。すると日本ではクリスチャンはゼロになってしまうだろう。

今度出た堤純子著『アーミッシュの老いと終焉』は、このアーミッシュの日常生活を詳しく描写している良い本だと思う。近代文明の便利さの中にどっぷり浸っている私たちに反省を迫るものだ。

例えばなぜ学校は日本でいう小・中学だけで終了するのか?答えは聖書、例えばコリント人への手紙8:1にある。「‥しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」。

その通りではないか。高校・大学と進むうちに得られた知識は人を必ず高慢にする。私自身証するが、聖書だけあれば高度な知識は不要である。それよりも神を愛し、人を愛し、神と人とに仕える生活がどれほど祝されたものか、ささやかながら実感するのだ。

けれどもこの共同体には「ラムシュプリンゲ」という制度がある。学校を終えた若者たちに与えられるモラトリウム期間の事で、その間彼らはアーミッシュの一切の戒めを解かれ、教区外の世俗の世界で、欲望のままに振舞う。酒・たばこ・麻薬・車・派手な服装・ダンス等々、ルカ15:11以降にある放蕩息子のように快楽を体験する。そうした中で、若者たちはアーミッシュの浸礼を考える。この欲望のままの生活に浸りたければそれを受けず、外部世界に留まる。しかし彼らはそうならない。ふと我に返り元の共同体に戻って来る。あの幼い時から経験している「土の匂い、草や家畜の匂い」、これまで大切にして来た大事な空気が外部には決定的に欠けている、そう気づくのだ。自分の意志(*実は神のみこころ)で戻ったのだから、信仰が生き、確固たる意志が芽生えるという。

こうして浸礼を受けた彼らは、多産を奨励されているこの共同体の中で結婚し、その人口を確実に増やしてゆく。将来のアメリカの人口の半分をアーミッシュが占めるようになると予測している人々もいる。

結婚した後も、彼らは家族・親戚同士結びつきを強め、冠婚葬祭、納屋作り、農繁期の手伝い、礼拝後の交わり等々、ありとあらゆる手伝いをし、仕え、さらに絆を深めて行く。高齢者の介護も同じだ。そして死も。7割が在宅で皆に囲まれながら召されて行く。

その濃密な関係は煩わしいか?そうではない。彼らは他者との関係の中の個々人ではない。「神という絶対的な存在を通して他者と関わっている。このことが彼らの強い絆を生み、安心感をもたらす」とあった。

神への服従と隣人に対する徹底的な愛、これが言うは易く行うは難しであり、キリスト教でも分裂して多くの教派を生み出して来た。

アーミッシュはおよそ30所帯で一つの教区を形成するが、困り事があれば、その教区を越えて救いの手を差し伸べる。外部世界との接触は全く無いわけではないが、紛争は全て聖書に基づいて処理される。イエスご自身が言われた「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)を模範に、幸いと言われた「柔和」を追求する。πραεῖς(プライース)というギリシャ語は、日本人が想像する「柔和」とは違う。怒るに遅く、憤りを嫌い、挑発もせず、直ぐに仲直りをし、被害を受けても憤慨せず、悪に悪で報いず、かえって悪に善を返す人をイメージして欲しい。

日本人で言えば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のような人に似ている。

アーミッシュはそうした利他的な行動をとるから、強く太いネットワークが形作られる。その模範に対して僕はまだ極めて貧しい。だから「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。自力では不可能、信徒の内に住まわれる聖霊の力による他ない。