ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

親友を持つ事の大切さ

 2011年1月8日の朝日新聞には、「親友はいますか」という題でのアンケート調査結果が出ていました。
 結果は「いる」と答えた人が61パーセントを占めました。回答者数は4055人とあります。
 私に関心があったのは、親友と思う理由です。
 調査結果では100%信用できるという理由を選択した人がトップで、894人いました。次いで付き合いが長いが764人を占めています。それに対して逆境のとき助けられたという理由は、トップの半分でした。
 朝日では親友の定義を「かけがえのない特別な存在の友だち」としています。
 この結果では二位の付き合いが長いという点は納得出来ます。しかしトップの100%信用出来るというのはどうでしょうか。親友がいないと答えた人々の中には頼れるのは自分だけとか、100%心を許せないという回答が比較的多く見られました。また友情が壊れる原因としても、親友として信用していたにもかかわらず、金銭の貸し借りが原因で一挙に壊れてしまう実情がトップに挙げられていましたし、まさかの裏切りがそれに次いでいます。
 それらを考えて見ますと、親友と思う理由の「信用性」は、調査時点ではずっと保たれて来たかも知れませんが、何かの機会にそれがもろくも崩れ去る事があり得る事を示唆していないでしょうか。
 私がそう考える理由は、全ての人の心に罪が固有のものとしてあるからです。
 いつも挙げている聖書のみことばですが、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そして高ぶり、愚かさであり」(マルコ7:20−21)といった邪悪な性格を人々は備えていて、いつでも顕在化し得るからです。
 ヨブという大変有名な旧約の信仰者がいました。彼には親しい3人の友人たちがおり、彼の苦難の時助ける為にやって来ました。しかしヨブがあまりの苦しさに自分の生まれた日を呪ってから、この3人の友人たちは助けたり、彼の苦難の言葉に傾聴したりせず、逆に彼を非難し始めたのでした。ヨブはこう嘆いています。
 「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた」(ヨブ19:19)。つまりヨブの親友たちは彼の些細な?弱さの言葉につけ込み、彼に背いてしまいました。後にこの3人は主なる神からの叱責を受け、悔い改めて、ヨブとの親友関係を復帰させましたが。
 また他にも「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」(詩41:9)といった証もあります。
 それに対して厚い信仰と友情で結ばれていた、これぞ親友という関係の人々も登場します。
 サウル王の子ヨナタンと、後にサウル王を継いで王になるダビデがそうです。
 「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(サムエル第一18:1)。
 間違ってはいけません。これはいわゆる同性愛の事ではありません。ダビデの今後を憂えたヨナタンの犠牲的な愛です。互いに神に向かう愛で相通じた深い愛です。これは遂に終生崩れる事がありませんでした。
 翻って信徒同士でもその愛が崩れる時があります。人間の持つ肉体の弱さがあるからです。ヨナタンダビデの親友関係に倣いたいものです。