ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

山本義隆著『福島の原発事故をめぐって』を読んで学んだ事

 山本氏は言わずと知れた70年安保闘争時の東大全共闘議長でした。その後は極めて優秀な方なのに、アカデミズムに帰らず予備校で教え続けています。
 そして当時の事はほとんどノーコメントなので、少し寂しい気がしていました。ところがその陰で闘争時に配られたアジビラの類を出来る限り集め、アーカイブとして残したという話を聞いて、ああやっぱりと思っていました。
 山本氏はそれから専門の物理学の知識を生かし、西洋の歴史を丹念に紐解きながら、あの有名な『磁力と重力の発見』を書きました。これが大佛次郎賞を受けた事は朝日新聞の記事で知り、図書館で借りて読みました。駿台文庫の『物理入門』を買って物理の復習をしながら、その大著を読み通しましたが、私にとってはやはり難解でした。
 人物検索でネットを覗くと、私と同じような感慨を抱く人々が多くいるのに驚きました。私は当時別の大学で全共闘に加わっていた為、山本氏が大学院時代にノーベル賞を受賞した湯川秀樹教授の門を叩いた事があるのは聞いていました。湯川氏と同様素粒子論が専門というのは頭に入っていたわけです。
 ですから今回の東電原発事故では、きっと専門を生かして批判的な本を書いてくれるのではないかと期待していました。案の定みすず書房から『福島の原発事故をめぐって』をごく最近出したのを新聞広告で知り、買って読みました(ビンボーなhateheiなので泣く泣く。でも原発関係は出来るだけ買って読み、聖書の観点から批判を続け、被災者の方々と共に泣いて、いつまでも忘れず付き添う事を義務と課したので。重機を扱うような体力も全くありません)。これは凄く読みやすかったので、一気に読んでしまいました。物理が苦手な皆様にも是非読んで頂きたいと思います。
 山本氏の立場が全共闘当時と全く変わっていない事がこの本からわかり嬉しかったです。最近出ている反原発関係の学者・評論家の本と一味違うところは、やはり『磁力と重力の発見』で見せた科学の歴史にまで踏み込んでの科学技術論でしょう。それはこの本の終章である「第三章:科学技術幻想とその破綻」に遺憾なく発揮されています。第一、第二章についても、山本氏は「原子力(核力のエネルギー)技術の専門家でもなく、特別にユニークなことが書かれているわけではありませんが…」と謙虚に「あとがき」で書いていますが、どうしてどうして、素粒子論専攻の筆致で冴え渡る部分が随所に見られます。
 その第三章に「ガリレオの実験思想、デカルトの機械論、ニュートンの力概念による機械論の拡張、そしてベーコンの自然支配の思想を背景に、近代の科学技術思想が形成されていった…そして同時に近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然に対する畏怖の念を忘れ去っていったのである」とくだりがありますが、これこそ原発推進科学者たちの剥き出しの姿に他なりません。続けて「それまで、動力源としては水力と風力、そして畜力や人力しか知らず、火力はせいぜいが暖房や調理のために使われていた時代に、蒸気機関ー熱の動力としての使用ーの実用化と発展は西欧社会に大きなインパクトを与え、科学技術の無際限の進歩という観念を一気に肥大化させた…」とあります。その延長線上に原子力工学を専攻した技術者たちの群れがいるのは言うまでもありません。さらにフランスの作家ヴェルヌの物語の末尾を引用しています。「…風も波も自由にできない人間には、創造主の権利を横取りすることは禁じられているのではあるまいか?」。私が着目し学んだのはまさにこれらの箇所です(赤線で強調しておきました)。
 だから伝道者ソロモンはこう書きました。
 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(旧約伝道者の書12:13−14)。
 その前の箴言にもこうあります。
 「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(箴言1:7)。
 この主なる神を畏敬せず、いや神などいないとうそぶいている東電などの科学者たちが今、圧倒的なバッシングを受けています。でも彼らは居直っています。そこで神は終わりの日に彼らの「すべてのわざをさばかれ」ます。人間のペンは非力かも知れませんが、自然を造られた神は圧倒的な力を有しています。