ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

池澤夏樹朝日連載「終わりと始まり」−『ツリー・オブ・ライフ』を見る

 前にも触れた事がありますが、池澤さんは私の高校の1年先輩で大学の理科系から文学に転じた人です。近頃世界文学全集全30巻を個人で編集しました。
 上記の連載物は全て切り抜いて保存してありますが、やはりエッセイの中に理科的発想が散見されます。そして「キラッと」光る箇所があります。
 今回「ツリー・オブ・ライフ」なんて言葉が出て来て、何やら演劇か何かの批評かと思ったら、そうした題の映画の事だそうです。池澤さんはその内容を一通り紹介しています。それによりますと、あまり波乱の見られない作品のようですが、登場する俳優の演技がすばらしいとの事です。途中までは深刻な場面もありますが、最後はハッピー・エンドになっているそうです。
 そして話題が変わり、この監督が抱き、掲げた聖書の箇所が引用され、池澤氏もその内容を反芻し、考え込んでいるようです。
 それは難解とされる旧約のヨブ記です。主の御前に正しく歩んでいたヨブは、ある日悪性の腫物で全身を打たれ、試練の只中に置かれました。その彼を見かねて三人の友人たちが訪ね、最初は慰めようとしますが、自分の出生を呪ったヨブに対して、次第に辛く当たるようになりました。そのやり取りが長く続き、ヨブの心はだんだん動揺して行きます。さらにもう一人の人が三人に「加勢」する形で登場し、その後に主が現れこう言われました。
 「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ…そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ」(ヨブ38:4,7)。
 ここで「わたし」とは主である神の事、「あなた」とはヨブの事です。この箇所は神による天地万物の創造を示しています。その時点ではまだ「人間」は造られていません。天使ら天の万象だけです。
 しかし池澤氏はそこで重大な間違いを犯しています。「大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた」。
 実は創世記の第一章を見れば、その間違いが良く分かります。確かに人間は創造の六日目の最後に造られたわけですが、それまでに完結していた被造物の世界は、人間の為に神が整えられたのです。今原発で飛び交っている「工程表」というものが、主の御心の内にあって、簡略化するとまず地球、そしてその上に生える植物、太陽、月、星、水の生物、空の生物、陸地の生物という合理的な順序で進められ、それを踏まえて人間が創造されたのでした。
 神はその人間をご自身との交わりの為特に重視し、被造物のトップと位置づけられました。
 「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ43:7)。
 「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩8:5)。
 しかしその人間が罪を犯して堕落した為、最初全てよかった被造物が全て呪われるようになりました。かつて自然を統治・管理していた人間は今は自然から様々な試練を受けるようになりました。この試練にはいろいろな意味がありますが、信徒であるならそれが罪ある身の「練りきよめ」の為という事が分かります。原発隣で全てが失われた福島第一聖書バプテスト教会の牧師の証参照(http://f1church.com/)。
 「思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れる…」(ダニエル11:35)。
 ヨブもまさにその通りであり、疑念は湧いても最後まで耐えたので、神は彼を諌めた後、大いに祝福されました。試練が終わったヨブは最初の時以上に幸せになり、そのいのちを全うしたのです。信徒もその事が分かるまでいろいろ苦悩し、相当な時間が費やされます。
 池澤氏が悩んでいるのは、今度の災害で多くの人々のいのちが失われた事の意味についてです。その大半は未信徒でしたが、神はその人々をも愛し憐れみ、今も残った人々に救いの御手をのべておられます。神を呪うのはお門違いで、罪を犯した最初の人の呪いが今も引き継がれているという事でしょう。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。