ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『戦後史の正体』を私も読んでみた

「しかし、民衆はアモン王に謀反を起こした者をみな打ち殺した。民衆はアモンの子ヨシヤを代わりに王とした」(歴代第二33:25)
 2012年8月に発行された孫崎亨氏の『戦後史の正体』はベストセラーとなり、戦後日本の統治が全て米国の意向に沿って行われていた事が明らかになりました。勿論孫崎さんの言われる事が全て真実とは限らないにしても、外務省という省庁に長く務め、主要な人物と出会い、外交文書を読み、「東大話法」の読み解きなどもたやすく行う方ですから、私たち庶民の知らなかったところでの意外な話が続出で、とても1回では感想が書けず、これも3回位に分けて考えてみました。

 まず私が生まれたあと、早い時期に父親の書斎で見たのは、1945年9月2日東京湾停泊の戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式でした。軍服に身を固めた軍人たちの中で、先頭になって歩いている黒いハットと黒い制服、それに杖を持った人の姿がやけに目立ちました。それが鈴木貫太郎内閣辞職後の東久邇宮内閣の外務大臣重光葵(まもる)でした。
 旧制五高から東大法学部を出て外務省に入り、世界各国の公使を勤め、東条英機内閣の外相でした。それからしても広田弘毅のように戦犯として死刑になる可能性はあったと思いました。しかし実際は少し異なり、A級戦犯でも禁固7年で済んでいます。
 その重光にすぐ大きな試練がやって来ました。既に絶大な権力を掌握していた連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの、厳しい3布告撤回交渉です。
 この布告とは1:日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司法のすべての機能は最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする2:米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する3:米国軍票法定通貨とするというものでした。
 マッカーサーとの交渉でしたから、成算などとても望めませんでしたが、重光は一首したためて決死の覚悟で9月3日会合に臨みます。
 「折衝の、もし成らざれば死するとも、われ帰らじと誓いてでぬ」
 このポツダム宣言と矛盾する布告撤回への交渉は、重光の交渉能力が遺憾なく発揮され、マッカーサーは全面的にこの布告を取り下げました。
 しかし対米自主路線を貫く重光は、1945年10月幣原喜重郎内閣になると更迭され、外務大臣には吉田茂が就任しました。そして翌1946年、ソ連の圧力もあってA級戦犯となり、48年禁固7年の刑が下りました。でも1950年仮釈放となり、再び政界へ進出しました。
 次の登場は1954年の鳩山一郎内閣です。彼は対米自主路線を唱え、重光を外務大臣兼副総理にしました。この時重光はダレス国務長官に対して、安保改定の具体的提案をしました。骨子としては米国地上軍を6年以内、米国海空軍を米国地上軍の撤退から6年以内、合計12年以内に米軍の完全撤退を提言したという事です。勿論ダレスは拒否し、翌1956年重光は辞任し、1957年1月に69歳で急逝しました。
 戦後史で対米自主路線をもっとも強く主張したのがこの重光でした。私はそれをこの孫崎さんの本から知った次第です。このように腰を据えて交渉に臨んだ重光さん、今の若い外相や外交官も見倣って欲しいものです。