ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

南相馬市への旅

 「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(ヨハネ20:8)。
 2014年11月5日、発掘を共にしていた私の友人で、先に大田区から成田線の田舎に引っ越したN君が、私の希望する南相馬視察を、来年でなく次の発掘までの合間にやってみよう、車を出すからと言ってくれました。ブルドーザNとあだ名をつけただけに、この申し出は願ってもない事。すぐ計画を立て、5日に1泊2日の視察旅行を実現させました。
 先に国道6号が仙台まで開通したので、まず常磐富岡まで来ている高速道に乗り、そこから降りて6号を富岡町大熊町双葉町浪江町南相馬市尾高区と通過し、原町区、鹿島区で降りて諸情報を集める事にしました。そして鹿島区の友人宅を訪ね、すぐ近くの農家民宿に泊まる事にしました。
 まずは富岡インターの終点から国道6号に入り、間もなく福島第一原発のある大熊町に入りました。左画像では右手の少し南寄りです。

 ここで異様な感じがしたのは、そこに誰一人として人影が見つからなかった事です。それもその筈。東京新聞の最新情報では、この画像の夫沢近くの車内放射能は最高の毎時5.5マイクロシーベルト、他の情報では車外で19.7マイクロシーベルトほどで、人が下車するのは禁止だからです。車はまばら渋滞はなく、全速で通り抜けました。最新の警告情報が国道に出ていなかったのは、そうした作業が極めて危険だからでしょう。そして車内から左右を眺めると、所々家が見えますが、震災時と全く変わらないようで、破損したままの光景が延々と続いていました。
 そこからすぐ北は双葉町です。さらに北の浪江町にかけて、国道沿いに結構立派な家も見え、線量も毎時0.3マイクロシーベルトと下がって来ているので、初めて人に出会いましたが、全て側道に入らないよう、警戒している警備員ばかりでした。東京新聞も心配していましたが、かなりの軽装でした。そして帰還困難区域なので、まさにゴーストタウン化していました。家々は泥棒侵入を防ぐ為の伸縮門扉で厳重に閉ざされていました。右画像は帰りの車中で撮影。

 そのように下車禁止の為、写真はほとんど撮れませんでした。原発の排気塔も見えないまま、あっという間の通過でした。すぐ南相馬市の小高区に入りました。ここは最も津波の被害がひどいところで、海岸線に至るまでの田んぼは荒れ果てたままでした。下左画像は雑草ぼうぼうの光景。

 小高区では人も徐々に増えましたが、だいたい重機関係の作業場が主体で、ここではまだスタンドも飲食店も閉鎖されたままでした。
 そしていよいよ復興の最も進んでいる原町区に入りました。でもまだ営業中の飲食店はありませんでした。目指す高見町市立病院の斜め向かいにある道の駅で初めて車が一杯、人々はここで食べながら休憩していました。右画像。

 さらにここには「ふるさと回帰支援センター」(http://www.msouma-furusato.jp/iju/iju.html)も同居しており、移住相談・申し込みのコーナーがあって、私は早速登録しておきました。このホームページで、初めて「農家民宿」を見つけ、数件ある中で、鹿島区の「森のふるさと」が空いており、予約しておいたのでした。
 休んでから出発し鹿島区に入りました。常磐線鹿島駅を渡り,少し戻ったところに、東京新聞が連載を始めた「あの日から―福島を語り継ぐー」に登場する、江戸時代後期から続く若松味噌醤油店に立ち寄りました。

 そこの10代目若松真哉氏はあいにく出張で留守でしたが、お父様(何と私と同年齢で、私の友人T君とかつて学校で同級)から、現地の詳しい話を伺いました。今鹿島区は避難先から土地を買ったり家を建てたりする人が急増し、大熊・浪江町などの被災者の仮設住宅が多く建っています。

 居住者の方に声をかけてみようと思いましたが、どの住宅の部屋も昼間からカーテンがかかっていて、訪問者に会いたくないようでしたので、今回は中止しました。友人T君の家はここからすぐでしたが、あいにく福島市までの急用があって、会うのは翌日になりました。

 そこで最終目的地の「森のふるさと」へ。素朴な民宿でした。友人N君夫妻とくつろぎ、賄いをして下さる森さん夫妻と語り合いながら、多くの情報を集めました。森さん一家も3・11当時は会津若松などに一時的に避難しましたが、線量も下がり落ち着いた時点で、こちらに戻って来られたのでした。かつて食事は田んぼからの有機だけによる米が自慢で、東京など個人ベースで注文を多く受けていました。しかし災害以後今日まで、稲のベクレル数は基準値を遥かに下回り、出荷可能なのに、風評被害で全く売れず悔しい思いをしておられます。そこで夕食の米は会津から、後は畑の野菜を主体とするメニューでした。刺身とカレイの煮つけも出ました。

 食事後もずっと話が弾み、原発に関しても新たな情報をいろいろお聞きしました。そして私が永住を望んでいる事を話すと、その情報も出来る範囲で提供する事を約束してくれました。
 都会の喧騒のない中、久しぶり静かな寝床で熟睡出来ました。

 翌朝の食事も納豆、しゃけなど定番のもの。森さんのご主人は出かけ、奥様とまたひとしきり話し、コーヒーを頂いて宿を後にしました。そして往きに寄った道の駅交差点からすぐのところに勤め先のある、友人T君と久しぶり合い、相馬の米を頂いて、帰路に就いたのでした。
 原発中心地から鹿島区の仮設住宅までを実際つぶさに見て、まだ復興など到底あり得ない事が良く分かりました。原町区の中心地にも、外食産業はまだなく、T君勤務の場から西に少し離れた所に、イオンスーパーセンターがある位。車のある人々はやっとそこに食べ物を買いに行ける程度です。風評被害も予想以上に大きく、米などベクレル数が基準値以下である事を考えると、東京の団塊世代以上は、小出京大助教の言うように積極的に買って食べるべきだと思いました。同時に東京人は3年半経過してもう福島を忘れ、来るべき五輪の関心ばかり。もし実際始まれば、テレビに釘付けになり、すっかり被災地の人々の苦悩など忘れてしまうでしょう。
 繰り返します。小高区、大熊町浪江町などを6号から垣間見ただけでも、原発被災者たちの生活は、3年半の経過で何も変わっていません。いや原発の一号機カバー除去、瓦礫撤去で、新たな放射能「小プルーム」とでも言うべきものが、この南相馬市を再び襲うでしょう。東電は認めようとしないし、補償の話も一切ありません。この恐るべき犯罪企業が潰れ、当時の責任者たちが断罪される事を、新たな怒りと共に切に訴えたいと思います。