菅原文太氏の死
「こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ](ヨブ42:17)。
2014年11月28日、俳優(だけではありません)の菅原文太氏が81歳で亡くなりました。
画像はhttp://ameblo.jp/okuyama-motchi-y/entry-10370329300.htmlよりお借りしました。
私は大学を卒業して、母の狭心症の見守りで家に居た頃、大ヒットした「仁義なき戦い」を映画館で見たのが、俳優菅原氏との最初の出会いでした。あのドスの利いた広島弁が、リアルな映像と共に心に残っています。
菅原氏は昭和8年仙台で生まれました。そして父親の都合で、幼少の頃一時東京で育ち、昭和18年父親が出征すると、その実家のある宮城県栗原郡一迫町(現・栗原市)に疎開しています。その後名門仙台一高から早稲田大学法学部に入り、中退しました。
私事にわたり恐縮ですが、くも膜下出血で1996年に亡くなった私の兄も昭和8年生まれ、父が横須賀の海軍へ応召した時、同じように栗原郡に疎開しました。そして早稲田高等学院から法学部に入り、卒業しています。その意味で多少とも符合するところがあり、親近感を抱いていました。ちなみに早稲田高等学院の1年先輩に青島幸男がおり、同じ年代の野末陳平(早大)とは、どこかで接点があったようで、その易に凝っていましたが、私の見るところでは大体当らず、易で選んだ兄嫁とは相性が悪く、ストレスからくも膜下出血を起こし、ほぼ即死しました。
その後の菅原氏の消息は私の記憶にありませんでした。
しかし2011年3月11日の福島第一原発事故以来、政治の分野にも関心を抱くようになったようです。そして俳優業を止めて、反原発の旗印を鮮明にしました。政党とは違う「いのちの党」を2012年に立ち上げました。ニュースにもなったので、その頃から再び菅原氏の活動に注目するようになりました。日刊スポーツサイトによると、「自殺者や、いじめ、殺人事件…命が粗末にされている。反原発も命がかかわるもので、今は命が粗末にされている。そういうところを変えていかないと」というのが、結成の意図でした。菅原氏に言わせると、今の政治家は「クズ」で、同サイトでは「仁義なき政界に鋭い『喝』を入れていく覚悟だ」と語っています。あのドスの利いた声で、仁義なき原発推進者たちに「喝」を入れ続けてくれれば、そうしたクズ政治家たちも少しは縮み上がると思っていた矢先の訃報でした。
さらに東京新聞2014年12月2日の記事によると、原発以前の2009年には、山梨県北杜市に農業生産法人を設立し、有機農法に取り組んでいたそうです。里山運動の実践者でもあった事を初めて知りました。カネばかり追い求めて来た日本人が、今後はもっと「暮らしとか自由とか権利とか、そうしたところへ立ち返る」べき事を強調していました。
あの仁義なき戦いの敵地に飛び込む勇敢さ、「社会におかしいことがあれば、純粋に怒れ。それが正義だ」と言ってはばからなかった菅原氏、本当に見倣いたいと思いました。
今国会議事堂前では、そうした純粋な怒りを込めた人々が集まり、理不尽な原発再稼働に異議を唱え続けています。そこで出会ったブログ仲間のSPYBOYさんは、限りなく「やさしい声」です(笑)私はと言えば、全共闘以来のドスの利いた声でと思っても(当時は65キロもありました)、手術6回で痩せこけ、腹壁瘢痕ヘルニアで、腹の底からの声が出ません(泣)ドスの利いた声を張り上げる事が出来る人々よ、国会を始め、全国各地でもっともっと、そうした声で行動を起こして下さい!