ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

小堀鴎一郎著『死を生きた人びと』

 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)
 朝日新聞の「ひと欄」に森鴎外を祖父に持つ小堀鴎一郎氏が登場した。「外科医から訪問診察医に転じた文豪の孫」とある。食道がんの専門医として都内の病院長のまま定年を迎え、或る出来事から訪問診察医に転じた。
 この人が『死を生きた人びと』という本を出した。磯村健太郎という「ひと欄」著者は、この本を「どこか文学的だ」と評した。
 森鴎外を知る人なら、文学的というイメージから、そうだこの本はそうした文学的表現に満ちていて、読みやすく面白そうだと考えるかもしれない。しかし実際はそうではない。英語もギリシャ語もカタカナ語も医学専門語も登場し、細かな統計資料も結構載っていて、決して読みやすくはない。忍耐強くない人なら直ぐ投げ出すだろう。
 何よりも題が示すように、死を生きた人々の事例は本当に深刻なのだ。気軽に読める本ではない。
 聖書には「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世4:7)とある。それをもじって言うと、「死は戸口で待ち伏せ、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それに直面して受容すべきである」となるだろうか。
 最初からの数十の事例を見ても、患者やその家族は死が戸口で恋い慕っている事実を全然受け入れていない。まるで自分はずっと死なないかのように振舞っている。医者は医者で、死は敗北、出来るだけ延命させようとなる。エリートである一般の医者は、「患者の病気にしか関心がない」。「医者の多くは患者の最後の楽しみに関心がない」。ぞっとする話である。
 この本から私は「死の質」(QOD)という言葉を初めて知った。これは良く知られている「生命の質」(QOL)に対峙するものである。「死が間近に迫った場合には…どのように死を迎えるかに焦点を当てた『死の質』という概念が、今注目されているそうだ。
 2010年初めて「死の質指標」なるものが、英国週刊誌エコノミストで出された。調査対象は世界40ヶ国で、日本はランク付け26位だった。それが2015年80ヶ国に増えたが、その時の日本は総合で14位と少し上昇した。しかしこの長いPDF報告(http://www.lienfoundation.org/sites/default/files/2015%20Quality%20of%20Death%20Report.pdf)をちょっと垣間見ただけでも、緩和ケア部門のランキングは16位、手の届くケア部門は17位、ケアを提供する能力では27位(*訳し方の間違いはあるかも)、他も概して成績は余り良くない。豊かな先進国の中では最悪に近いかも。
 小堀氏は2010年の指標と、自ら挙げた事例から「死を正視しないことによる悲惨」を主張する。一方「生かす医療」は2位だそうだ。故に小堀氏は「死を忌むべき敗北とみなすことから起きる悲惨」と、繰り返し主張して止まない。
 クリスチャン人口が実質1パーセント以下の日本では、死なせる医療の質が低迷するのは当然だ。とにかく一般の医者がまるで死をわかっていない。だから「医者よ。自分を直せ」(ルカ4:24)となる。
 キリスト教では冒頭の聖句が示す通り、「一度死ぬこと…は定まっている」。信徒の出発点は、その死とさばきを解決してくれたのが、あの十字架上で身代わりとしての死を遂げたイエス・キリストであったという事実である。
 罪とその結果としての死は、いつも戸口で待ち伏せしている。だから信徒はこのイエス・キリストを信仰をもって受け入れる。その賜物としての永遠のいのちがあるからだ。それを希望として生きている。私の在籍している教会では、キリスト教葬儀が既に何回かあった。地上では弱い者だから死にたじろぐ事もある。しかし最期は受容し、天国への希望を持ってこの世を離れる。葬儀は召して下さったその救い主を讃え、信仰の勇士としての故人を偲ぶ。一時の悲しみの中にも、安堵感があり、医療を施す側への恨みつらみなど一切ない。
 なのでよほど気をつけながら、死を直視し、終活をしておくべきだ。そうでないと小堀氏が言うような「悲惨な死」を迎える他ない。