ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

知識を増す事と聖書の勧め

 外山滋比古さんの本がよく大学生に読まれているそうです。『知的創造のヒント』という著書がありますが、その題の如く、彼らはどうしたら知的創造の力を培う事が出来るかを考えているようです。
 一方高校生ならどうでしょうか。たぶん外山さんの教えはあまり実践的な大学受験の役には立たないと思っている人が多いと思います。それは何故か。大学受験ではそうした力は試されません。時間の制限もあるからです。やはり受験会場で点数を稼ぐのに必要なのは「知識」力なのでしょう。或いは与えられた問題を解く為のテクニックかも知れません。このテクニックを出来るだけ多く頭に詰め込んでおけば、一流大学でも入れるという事でしょう。
 私の出身の高校は当時受験校でしたから、皆知識や技術を駆使して一流大学に入って行きました。私は現役では英語の知識力に頼って、今の一流私立大学には合格しましたが、面接でどうしても行きませんと断ったため(なぜそうしたのかは自分でも謎で、家が貧しかったから浪人しても国立へという思いがあったのでしょう)、落ちた苦い経験があります。そして浪人中に母親が狭心症で倒れ、そのケアで時間をとられ、一時は大学受験を諦めようと思ったほどでした。
 でも実際入った大学は作家の落合恵子さんと同じで、動機も似ていました。彼女も国立大学を受験し、落ちた為に学費の一番安かった私の大学に1〜2年先輩として入っていたのでした。
 そういうわけで、実際の私はテクニックを叩き込む予備校ではそれを少し垣間見たまま、受験勉強を終えていました。数十年経て東大などの出題科目に挑戦してみる事がありますが、やはり解けません。それが身についていなかったからでしょう。
 それはとにかく外山さんはそうした「知識」の詰め込みに対して、警鐘を鳴らしているようです。『忘却の力』という本は最初から最後までめっぽう面白く、一気に読んでしまいました。私のメッセージの為のヒントがあちこちで見つかり、嬉しくなりました。
 この本の終わり近くで外山さんは「知のコレステロール過多症」という言い回しを使っており、なるほどと思いながら、次の段落に向かいました。こうあります。「高等教育の普及拡大にともない、習得される知識量はかつてに比べて飛躍的に増大している。それにもかかわらず、知識はすこしでも多ければ多いほどよいという低教育社会の通念が生きのびているから、知識の過剰に苦しむものがあらわれるのは自然である。知識偏重人間である。善玉コレステロール(*知識過剰を指しています)が害をなすのである。知的に向上するのとひきかえに思考力とか判断力を低下させることが多くなった」。
 この考え方が外山さんのいろいろな本を通し、一貫して流れていると思います。ゆえに『知的創造のヒント』から引用すると、「これまでの学校教育が記憶だけを教えて、忘却を教えなかったのは、たいへんな手落ちである」という事になり、外山さんはひたすら「忘却の効用」を説いています。十分な睡眠、散歩などを通して、不要な知識を削ぎ落としてゆくのです。すると脳がリセットされた状態になり、疲労解消に繋がります。
 そうした事を考えながら、聖書にもひたすら知識を詰め込んだ偉大な王がいた事を思い出します。それは有名なソロモン王でした。彼は紀元前10世紀頃、当時の世界に通用する博学者でした。加えて主なる神から貴重な「知恵」も頂いています。
 その彼が中年頃ややスランプに陥ります。たぶんその頃に書かれたのが、旧約聖書の「伝道者の書」です。その滑り出しが次のことばです。「空(=くうと読みます)の空。伝道者は言う(ソロモンの事です)。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」。
 あらゆる方面の知識に貪欲になっていた彼が、ここでは他の宗教に似通ったことばを吐き出しています。彼は外山さんの言うように、知識過剰で頭が疲れていたのかも知れません。
 ですから上記の冒頭のことばがあって、その章の終わりで彼はこう言っています。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」。
 この書の終わり頃にも、彼はその苦い体験に触れています。そしてこう言っています。「多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる」。
 それゆえ彼の書は次の最も大切なことばで閉じています。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」。
 まさにその通りです。私も60を越えて、まだ知識の習得に熱を入れていますが、それだけでは確かに疲れ、物憂くなります。しかし神のみことばを開く時、それが解消されます。外山さんが睡眠や散歩の勧めをしているのに対して、私なら聖書のみことばを読む事を勧めます。それが頭をリフレッシュさせてくれます。全て疲れた事柄、重荷を負っている問題も全て解決され、それこそ知的創造にも繋がると信じます。不思議ですが、聖書の知識が増せば増す程、疲れが解消し、脳はいよいよ冴えてくるのです。この書に関する限り、外山さんの結論とは逆になりました。