ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

吉村仁の『強い者は生き残れない』のどこが斬新?

 小飼弾氏の404 Blog Not Foundというブログの紹介にあった吉村仁著『強い者は生き残れない』が面白そうだったので、早速図書館から借りて読みました。
 吉村氏の博識は読んでいてすぐ分かりますが、小飼氏が「著者の環境変動説は、木村資生の中立進化説に匹敵する進化論の補強となるだろう」という書評を寄せているのは、どうかと思いました。ほんとかな?というのが正直な感想です。
 総花的にいろいろ挙げていますが、著者があとがきで述べている「生物進化を環境不確定性に対する対応とし、その最も有効な方法が友人・親友(共生と協同)を作ることだというのが本書の趣旨」というのは、読後感として伝わって来ません。本著の題の『強い者は生き残れない』にしても、首尾一貫した説明、説得力が感じられないのです。
 どうしてでしょうか。著者は第一章の中でいわゆる18〜19世紀の英国における「工業暗化」を挙げています。それは高校の生物教科書にもいまだに載っている古い事例ですから、ご承知の方も多いと思います。オオシモフリエダシャクという本来白い蛾が、英国石炭産業の発達と共に幹が黒くなった樹木に止まると、黒色型に変わり、その結果捕食する鳥には見分けがつかなくなり、生き延びる事が出来たというものです。自然選択の良い例として好んで取り上げられていますが、著者はそれを「環境選択」と言い換えています。でもその事は特に目新しい事ではありません。そして創造論信奉の科学者たちが言うように、そうした「変異」が起ころうと起こるまいと、オオシモフリエダシャクは依然としてそのままです。別に新しい種に進化したわけではありません。
 また第十章では進化という言葉の定義の曖昧さがある為、著者は単なる変化と言い換えていますが、進化論での動植物の進化についても、ただ進化論者の憶測をそのまま述べているだけです。変化と言い直したところで、進化と大して変わりがありません。しかも強いモノは生き残れないとどう関わっているのでしょうか?
 そして第十一章では「猿人、原人、旧人」という進化論の図式に、アフリカ大地溝帯での化石骨の発見を例として取り上げ、「人類の進化は洞窟とともにあったといっても過言ではない」と言い切っていますが、それは嘘です。私たちは形態学的に見ても、ホモ・エレクトス以後、ネアンデルタール人、現代人に至るまで、同一の人間の中の「変異」としていますが、そうした人々がノアの洪水時の大激変で、海底から隆起した石灰岩の侵食による洞窟に住むようになったのは、考古学的に明らかです。しかしそれ以前のアウストラロピテクスなどの化石は洞窟とともにあったのではありません。アルディピテクス・ラミダスにしても、骨の状態はバラバラで、ノアの洪水の激変でそうした石灰岩などの堆積岩中に埋もれたものと思われます。初めに創造された人間だけは、ノアの箱舟以後共生していた「強い」恐竜などを差し置いて生き残っています。
 そして著者は最後に「共生・協同」の勧めをしていますが、それでさえ人文学では全然目新しい事ではありません。故小田実氏などは、15年以上も前に「共生」を説いています。
 でも今さら共生を勧めても、進化生物学の視点ではそれは困難です。米国の強欲な一握りの資本家たちを見ても、共生を望むなどとはおよそ考えられません。競争社会の勝者は「生き残れる」のです。敗者がどんどん死んで行くではありませんか!進化論の行き着く先はそういう事なのです。
 しかしその状態はいつまでも続くのではなく、弱者の信徒を顧みない強者の未信徒が「生き残れなく」なる時が来ます。
 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタイ24:14)と救い主イエス・キリストは言われました。終わりの日には進化論者も「生き残れない」のです。
 この吉村氏の本も小飼氏が激賞するほどのものではありません。遠からず「生き残れず」消え去るでしょう。
 著者吉村氏には失礼しました!!