ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

初心の気持ちを忘れていない湯浅誠氏の「もやい」の活動とエペソの教会

 聖学院大学政治経済学部20周年記念行事の一環として計画された講演会で、NPO法人「もやい」の代表湯浅誠氏と、学生たちとの対話から生まれたのが、『湯浅誠が語る「現代の貧困」』という本です。
 多少の「溜め」があるために、この社会でかろうじて生きている(というより神に守られて生かされている)私ですので、この本から得たものは大きく、後半の経済学者金子勝氏との対話もおおいに共感するところがありました。
 ところでこの「もやい」という名称ですが、私はその言葉の由来を全く知らなくて、いつも「もやもや」していました。ところが全く別のソース、つまり鶴見俊輔氏と黒川創氏による『不逞老人』を読んでいて、その中で民俗学でいうところの「もやい」という言葉を鶴見さんが発しているのを発見しました!
 脚注に「村落などの共同体で、相互扶助にもとづきながら、共同の事業にあたったり、ものごとを維持・管理する慣習的な制度」とありました。さらにネットで調べると、元々は土木用語で、「サロン・ド・カフェ・こもれび」のサイトでは、「船と船をつなぎあわせること(寄り添って共同で事をなすこと)」と定義されていました。なるほどと思いました。
 私もその「もやい」の活動に参加したいと願いながら、食べるだけで精一杯、交通費が出て来ないのです。早くパートでそこそこのお金を得て、ボランティア活動をしたいと願いながらも、2月に失業してハローワークに通いながら、いまだに仕事が得られないでいます。
 パウロという伝道者が「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(テサロニケ第一4:11)と聖書の中で語っていますが、現代の深刻さはこの「働き口」がない事です。やる意志が十分あるのに仕事が見つからず、一人の募集に数十人が応募するという状況では、身体障害者と認定されない身体障害者であり、60歳を越えている私はとても苦戦しています。
 それはとにかく上記の本で聖学院の学生が、湯浅さんに「もやい」の活動について、「今の活動の現実は初心の通りでしょうか」と尋ねています。それに対する湯浅さんの答えでは、活動しはじめたころの初心は忘れていないようです。否もっと忙しくなって「みんな限界を超えてヒーヒー言いながらやっています…{もやい}の人たちは芯の強い人たちだと思います」と断言していました。
 この初心を忘れない事はとても大切です。聖書でも主イエス・キリストはエペソの教会に対して、その初心を忘れたと言って非難しておられます。
 「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」(黙示2:4−5)。
 これを見ますと、エペソの教会は世の失われている人々への愛と救いの為の熱心な祈りを、次第に失っていった事が推測されます。日本のような社会でキリスト教が根付くのはとても難しく、何十年やっていても人が導かれない、そこで諦めに似た気分が教会を覆い、愛が冷めてしまうのです。
 私もそうあってはならないと、神の愛の御手により救われた頃の初心に戻る事の大切さを肝に銘じています。そして湯浅さんの仲間たちのように「芯の強い人」になりたいと願っています。