ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

トリクルダウンの考え方と実情及び聖書の例

 昨日取り上げた『湯浅誠が語る現代の貧困』の中で、湯浅さんが「トリクルダウン」という言葉を使っていました。
 これは一般の人々にはなかなか難しいカタカナ語です。そこでネットから調べて見ますと、ウイキペディアには「徐々に流れ落ちるという意味で、政府のお金を公共事業や福祉などで国民(特に低所得層)に直接配分するのではなく、大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となることを示したものである」と定義されています。しかしそれは現代の日本ではうまく機能していません。なぜか。ウイキペディアの続きを読みますと、「現実にはパイの拡大が見られても、それは配分の改善を伴わず、国民全体の利益としては実現されない。つまりは『富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる』はずであったものが、一部の富裕層の所得の改善」だけに留まっているからです。それに伴い日本では貧困層がどんどん増大し、同時に中間層が減って行き、富裕層も少しづつ伸びています。この中間層が減るどころか、一気に貧困化してしまう例は、米国の実情を視察した堤未果さんの『ルポ貧困大国アメリカ』における医師や教師等に見られます。日本も勿論このアメリカを追いかけています。しかし医者で違うのは、医療制度が崩れているのに、偏差値が高い為に医学部に行き、臨床に向かわないで研究部門に行ってしまう富裕階級の医者の卵たちでしょう。勿論中間階級の没落は、新聞の経済記事で例えばボーナスの大幅な低下といった問題で顕在化しています。サラリーマンはそれによって、高いローンで得たマイホームを差し押さえられ、ホームレスになって行くでしょう。
 こうした実情を真剣に考えて行かないと、日本は完全に没落してゆきます。富裕層は貧困層が餓死してしまえば、自分たちも生きてゆけないからです。
 では聖書ではどんなトリクルダウンが存在するのでしょうか?それはルツ記に載っています。勿論律法の規定はレビ19:9にあります。
 ルツ記の記述はミレーの絵画で有名な「落穂拾い」の場面です。
 「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった」(ルツ2:3)。
 ここに登場するボアズですが、マシュー・ヘンリーの注解書では「富裕な力のある人」と描写されています。当時のイスラエルでは相当に富裕な人だったのでしょう。彼は大規模な麦畑を経営し、働き人も多くいました。しかし彼は神を畏敬する人であり、上記レビ19:9「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」をよく覚えていました。ですから自分だけが富む事をよしとせず、貧しい人々にもその富から「トリクルダウン」する事を実践していました。
 一方ルツは義理の母ナオミと共に、一文無しでベツレヘムに戻って来た貧困な人でした。
 しかし異邦の人ルツに対してナオミはこの地では、湯浅さんのいう「人的溜め」があり、それが幸いしました。ナオミとこのボアズは親戚関係にあったのです。
 ナオミもこのレビ記のトリクルダウンに期待して、嫁ルツを摂理によりボアズの畑に送り出します。そこではボアズもレビ記のおきてを守り、落ち穂を拾う人々を拒む事はしませんでした。従ってルツはボアズの好意を得て、麦の落ち穂を拾い集めましたが、「彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった」とあるように、多く集める事が出来ました。彼女らは飢え死にする事はありませんでした。そして最後にはこのボアズとルツは結婚します。
 富裕層と貧困層の人が結婚する、これは今の日本では困難です。ですが主なる神のご支配するイスラエルの地では実現しました。「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」(箴言22:2)。
 貧困で悩み、自死も考えているあなたへ、私もこの主なる神に頼ります。是非主を信じて、あなたの貴重な賜物が生かされ、貧困の中にも神の祝福を見出せますように。