ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ダーウインの進化説を受けた自然主義と島崎藤村と聖書

 19世紀の西洋に発した「自然主義」文学ですが、この自然主義という言葉の意味が今一つ分からず、辞書やネットなどで調べて見ました。
 広辞苑では「文学で、理想化を行わず、醜悪なもの、瑣末なものを忌まずに、現実を唯あるがままに写しとることを本旨とする立場。十九世紀の末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とにより因果律で決定される存在と考えた」とあります。
 またウイキペディアではさらに踏み込み、「自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する。チャールズ・ダーウィンの進化論やクロード・ベルナール著『実験医学序説』の影響を受け、実験的展開を持つ小説のなかに、自然とその法則の作用、遺伝と社会環境の因果律の影響下にある人間を描き見出そうとする」とありました。
 これらの定義のうちには、エミール・ゾラの言った事が含まれているようです。
 そのように自然主義文学がダーウインらの影響を受けているのは確かのようです。彼の『種の起源』が出る前は、ヨーロッパの科学においても、当然のごとく神の存在を基に研究をしていたわけです。
 「初めに、神が天と地を創造した」に始まる創世記の創造週の間に、天地の万物が創造されたわけですが、それを覆したのがダーウインと言ってよいでしょう。同じ19世紀ドイツの哲学者ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」の中で「神は死んだ」と宣言したのは、あまりにも有名です。神は死んではいません。ニーチェの悲惨な最期を見て下さい!
 その問題意識を持って、久し振りに島崎藤村の『破戒』を読み直してました。瀬川丑松という「穢多」が主人公です。
 穢多(えた)という言葉はもう「死語」になっているかも知れませんが、山川の日本史の教科書には江戸時代の「身分秩序」という項に載っています。死牛馬の処理や皮革の製造に従事していた人々で、明治の時代は勿論、現代でもその部落出身の人々が蔑視され続けているようです。まさかこの人々が現代でと思われるかも知れませんが、民間の調査機関では執拗にそられの人々の存在を割り出そうとしているみたいです。
 そういうわけで丑松もその出自を隠して教員となりますが、最後には受け持ちの教室で生徒たちにその事実を告白、隠していた事を詫びています。それも詫び足りないというわけで、板敷きの上にひざまずいて許しを請うています。
何度読み返してもそれだけです。社会環境の因果律とは難しい言葉ですが、普通の環境から隔絶された部落に住み、その仕事ゆえに避けられないひどい状態に置かれ、代々受け継がれている状態とでも言えるのでしょうが、それを赤裸々に描写したところで、一体何になるのでしょうか。
 ダーウインの進化論は一言で要約出来ない多様な論ですが、スペンサーが適者生存(最も環境に適した形質をもつ個体が生存の機会を保障される=ウイキペデイアより)という言葉を使っているのに対して、ダーウインは自然選択で、「個体それぞれに生まれつき定められている適応力=同)に力点が置かれているようです。
 すると島崎藤村の描いた瀬川丑松は、やはり「生まれつき定められた、当たり前の人間として生きる価値がなく、ひっそり隠れて生活する事に適応している人」といった感じで、ダーウインの進化論になるでしょう。それは現代において顕在化していませんが、適者生存なら今の弱肉強食の時代、れっきとして行き続けていると言えるでしょう。
 例えば偏差値が高いという事は、その人の父母の遺伝的影響もたぶんにあるでしょうが、はやり激しい競争を生き抜いて来た勝利者という意味では適者生存になるでしょう。
 その彼らが敗者に対して、「お前は生きる価値がない、死ね」と言うなら、それは敗者を丑松に仕立てて、「穢多・非人」と言うようなものです。新聞記事やネットなどを見ると、こういう事を現代の優秀な若者たち(特に高校生)が平気でやっているようです。そういうふうに人間は進化してのでしょうか。否、江戸時代の侮蔑者に成り下がっているのです。「退化」もよいところです。
 「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し」(ペテロ第二3:3)とペテロは注意を喚起しました。そしてその日の終わりには、「不敬虔な者どものさばきと滅び」(同3:7)が定められています。
 ところで聖書の「穢多」は誰でしょうか。それは旧約聖書における祭司です。主なる神の聖なる場、聖所で奉仕する人々で、代々レビの子孫が世襲で行っていました。アロンもレビ人で、最初の大祭司となりました。最も尊敬される身分でした。
 「祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい」(レビ1:5−6)。
 従って旧約のイスラエルのうちレビ人は、神のために最も大切な奉仕をしていたわけで、江戸や明治の「穢多・非人」とは大違いでした。
 人間一人一人が神によりかけがえのない賜物を頂いて生まれて来ます。神によって創造された故に、神の栄光を表わすのは当然です。
 それを無視し、弱者を侮蔑しているあなたへ。いつかきっとあなたは裁かれ、永遠の火の池に投げ込まれます。その時歯がみし、泣いて悔しがってももう遅いです。ですから生きているうちに現代の「穢多・非人」と和解し、互いに共存する事を選びましょう。