ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ノーベル賞受賞者益川敏英さんのヘーゲル論と聖書的応用

 2年前のノーベル物理学賞を受けた益川敏英さんの『学問、楽しくなくちゃ』を読みました。
 およそ飾り気のない気さくな学者である事を感じさせる本でした。
 その最初の部分のすぐ後に「なぜ学ぶのか」と自由という題で、いきなり哲学者ヘーゲル法哲学が出て来ました。
 その中に「自由とは必然性の洞察である」という言葉があって、難解ですが益川さん自身の分かりやすい譬えが出ており、ネットで検索するとよく出て来ます。それは以下の通りです。
 「ここに、レバーが二つあるとします。二つのうち、一つを引っ張ったら青酸ガスが出てきて、それとは違う方を引いたら、100万年が出てくるとしましょう。『さあ、自由に、ご自由にレバーを引いてください」といったときに、自由はあるでしょうか。ありませんね。それは偶然性に身を任せるしかないし、場合によっては青酸ガスを浴びて死んでしまうかもしれないわけですから。ヘーゲルは、必然性ーある行動をとるとその結果はどうなるかという必然性を洞察した上で、どういう行動をとるか決めるのが、自由なのだといっているのです…」。
 これは分かりやすい例です。実際にネットで調べると、けっこう難しい概念であるに違いありません。この言葉の背景にはカントがいたり、適用ではエンゲルスが出て来たりで、私としてはちょっと読む気がしません。
 でも益川さんの譬えなら、聖書的な応用が出来ると思い、懸命に考えました。自由をキーワードにすれば、有名なヨハネ伝の8章32,36節が出て来ます。
 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします…ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」。
 実はこの箇所は上記ヘーゲルの言葉でネット検索すると、箇所はヨハネ8:31と間違っていますが、ちゃんと出て来ます。しかしあくまでバックグラウンドとしての説明だけで終わっています。
 そこで私なりに考えて見ますと、ここで真理が出て来ます。そしてそれが子、つまり救い主イエス・キリスト」と等価になっています。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。
 つまり救い主であるイエス・キリストが言われたことばこそが真理なのです。それは聖書全体と簡単に言う事が出来ますが、ここでもう少し絞って見ます。
 真理とは①救い主イエス・キリストを信じる人は、救われて永遠のいのちを頂く②救い主イエス・キリストを拒む人は、救われず永遠の刑罰を受ける、という事になります。
 しかしここにはどちらでも選ぶ自由が人に与えられています。ちょうどエデンの園で、アダムが「善悪の知識の木」の実を食べる、食べないの自由意志を、神が与えられたようにです。そうでなければ人間はロボットと同じになってしまいます。
 ですから人は自分の行く末(これは必然性があります)を良く考えて、行動する事が出来ます。これがヘーゲル的な自由という事になるでしょうか。
 しかしヨハネ伝を続けて良く読みますと、「ほんとうの」自由は①を選択した者に与えられる事が分かります。②を選択した人は、確かにこの世では自由を得ているかも知れません。しかしそれは真理に基づいたものではなく、利己的なもの、他者を排除した上で得られるもの、とかいろいろあるでしょう。でもこの世というはかない人生の天幕を降ろした瞬間から、ハデスという刑罰の中間状態の中で苦しみもだえ、苦痛のない平安な天国へは行く事が出来ません。それは②の選択による必然性です。「しかし、今ここで(=ハデスのうちのアブラハムのふところ→イエス・キリストの昇天と共になくなりました)彼は(=信仰者)慰められ、おまえは(=世に生きているうちに信じなかった者)苦しみもだえているのです」(ルカ16:25)。
 益川さんは憲法九条の普及に努め、また学問の府としての大学の役割を真剣に考えておられる尊敬すべき学者ですが、上記の事についてはどうなのでしょうか。まだ「ほんとうの」自由を得ておられないなら、是非受け入れる事をお勧めします。