ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

隈研吾の建築「水/ガラス」から考えた事

 隈研吾氏の『反オブジェクト』という本を読みました。教会の随筆では安藤忠雄氏の建築に触れましたが、隈氏の設計された建築も独特です。勿論門外漢の私としては、氏の文章と実際の建築物から得た印象というか、考えた事というか、自由に綴ってみました。
 取り上げた建築は「水/ガラス」という作品です。
 
 熱海の崖に作られたものです。そしてそれはネットの情報によれば、1997年のアメリカ建築家協会デュポン・ベネディクタス賞という賞を受けています。
 氏の本にあるこの建築については、プラトンアリストテレスといったギリシャ哲学者たちの本からヒントを得た事が書かれていますが、私は勝手に聖書の記事に適用してみたわけです。
 その本の記事を拾ってみます。第二章「流出する事 水/ガラス」からです。「建築とは、そもそも閉じようがないのである。そこに僕の建築の出発点がある。いかに壁で囲われようと、地下にとじこめられようと、建築はこの現実の世界の中に配置され、世界と接続され、世界に対して開かれている。要はいかに接続され、いかに開かれているかである。しかしその設問も完全とはいえない。正確に言えば、建築が接続されているのではなく、建築を通じて、人間という主体が世界と接続されるのである…建築の最上部…の床は一枚のフラットな水面である…水の深さはわずかに十五センチである…その約百メートル下には、もう一つの水面、すなわち海面が存在している…海面が世界を代用し、空中の水面が建築なるものを代用する。二つの平面を利用して、主体、建築、世界という三要素を接続する…主体が水面を媒介として世界を見なければならないのである…水は外部へと溢れ続ける…溢れた水は、ドレインによって一旦受け、再びポンプアップして循環させる…水はただ溢れているわけではない。海へと向かって流出しているのである…」(*途中括弧内の文章省略)。
 ここで私は隈氏の設計された建築を神の住まいと言い換えます。するとここでの主体は人間ではなく神です。そして海面は世界で共通しています。この建築外部の人間です。この建築物における流れる水は、外の世界ではありません。神の住まいから流れ出る水です。
 「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた」(エゼキエル47:1)。これは隈氏の建築における床を満たしている水に相当します。
 「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(黙示22:1−2)。同じように神の御座から流れる水晶のように光る水です。隈氏のフラットな水面のようです。それは良い天候と時間によって、この水晶のように光り輝く事でしょう。
 けれどもこの水は聖書ではいろいろ象徴的な意味で使われています。特に大切なのは救い主イエス・キリストのいのちのことばです。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハネ4:14)。
 そのことば(ロゴス)という水は、神の御座から流れ出て、海である人間の集団へと繋がります。隈氏の言うように「世界に対して開かれている」のです。そしてそのいのちの水を飲む人(=救い主イエス・キリストを信じる人)は皆救われます。
 しかしまたこのことばは、隈氏の建築物のように、実際には海に対して閉じています。神であるイエスのロゴスという水は全くきよく、汚れたところがありません。一方海の水は汚れており、汚物に満ちています。聖である神に対して、人間は罪深く汚れた、どす黒い者です。
 「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:2)。確かに人間の罪咎のゆえに、神の御座のある所は閉じています。それは隈氏の言葉のように、現実の世界の中に配置された開かれたものとは異なります。神のロゴスは海に手を差し伸べますが、しかし海は背を向けていますから、ポンプアップされてしまいます。
 ですから救い主イエス・キリストを信じる者には、この御座は開かれており、信じない者には閉じています。
 隈氏の言葉を借りると、主体(神)が水面(救い主イエス・キリストという媒介者)を媒介として世界(神に背馳している大勢の人々)を見られるのです。救われる者がいないかどうか見るためです。
 隈氏はこの建築からギリシャ哲学へ向かいましたが、私は神、媒介者イエス・キリスト、罪深い人間という聖書の事実へ向かいました。
 隈先生、勝手な想像をしてすみません!