ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

[[今週のお題]母親/母の日]

 私の母親は7年前に多臓器不全で亡くなりました。
 およそ40年ほど前、まだ介護制度がなかった時、それまで元気だった母が倒れました。父の会社が倒産し連帯保証人の責を負って半ば放心していた時、母は金策に走り回っていました。そして無理がたたり、狭心症になってしまったのです。
 当時兄と妹がいましたが、事情があって面倒を見られず、大学受験浪人だった私が引き受ける事にしました。従ってかろうじて大学へは行ったものの、その特殊な学問を生かす機会もなく、卒業後ずっと発作を起こす母のそばにいて看病を続けました。貧乏で病院に入る事が出来ず、ひたすら民間療法を続けていました。しかしそれでよくなるわけはありませんでした。
 なぜ自己責任でもないのにそこまでと言われるでしょうが、やはり母に対する子としての犠牲的な愛というか、子としての当然の義務というか、そんなところでしょう。
 私がまだ小さかった頃、はしかや他のもろもろの病気にかかりましたが、母は添い寝をして私の為に面白い本を読んでくれました。内田百輭とか巌谷小波とか。
 また会社の倒産で自宅も売りに出さなければならなくなりましたが、新たに移り住んだバラック然の家で私が小学校に通っていた時、ひどいいじめに会い孤立していた現場から、毅然として私を連れ戻し、元の小学校へ復帰させてくれました。柔和でやさしい母でしたが、そういう時は身をもって私を守ってくれたのでした。
 その母の看病中、それまで丈夫だった私が大病をしてしまいました。その時母はいわゆる「火事場の馬鹿力」で、寝たきりの状態から起き上がり、死ぬかもしれない状態だった私の為に無理をして病院まで通ってくれました。
 半年の後私は退院しましたが、安静の状態が続き、また弱って来た母をどうしようかと思いました。
 ちょうどその時、近くに良い医院が出来、母は初めてそこに通うようになりました。
 そして高コレステロールや高血圧を薬で制御出来るようになり、ほぼ普通の生活を送る事が初めて可能になりました。
 けれどもその頃父が亡くなり、遺族年金だけになった母と私は、また貧乏生活に逆戻りとなりました。
 状況は絶望的、私は母との親子心中も考えた事があります。
 しかし神はそんな私たちを見放されませんでした。まず私がそして母が信仰を持ち、私は安静状態を解かれて二人で教会へ通うようになりました。
 その後私が宣教師になってから、波乱万丈の日々が続きましたが、それでも二人はささやかながら人生を楽しむ事も出来たのでした。
 それが10年ほど前、母が86歳の時老人性うつ病を起こし、幻覚症状も出るようになってしまいました。その原因は母に無理をさせた私にありました。
 責任を感じた私は訪問看護師やヘルパーの手を借り、必死になって看病しました。ちょうど介護保険制度が始まった頃でした。
 しかしうつ病の発生から3年目、私も気付かないうちに母の病状は悪化していました。持病の心臓は肥大して胸水がたまり、両方の腎臓にはのう胞ががんの如くめぐり不全に近い状態でした。
 死の数週間前、突然病院の医師から自宅で看取るか、病院で見取るかの選択を迫られました。私は迷わず自宅で母を看取ると宣言しました。
 その数週間は点滴管理から痰の吸引その他濃厚なケアと、自分をここまで育ててくれた母への感謝を抱きながらの看病でした。
 しかし母の死は唐突にやって来ました。かろうじてその場に飛んで行った時、母は私の顔を大きな目で見つめて89年働き続けた心臓の鼓動をすぐに止めてしまったのです。
 それから7年、まだ自分の気持ちの整理はついていません。あの時ああすればよかった、こうすればよかったという気持ちにさいなまれる日も、時々あります。
 あの大きな目が私を捉え、次の瞬間には真っ暗になり意識がなくなったであろう光景がフラッシュバックとなって頭をよぎる事もあります。
 でも幸いに二人は信仰者となっていました。私もまもなく天にいる母のもとへ行きます。ともに天の場に座らせて下さった救い主イエス・キリストに感謝しつつ。
 やさしかった母、苦労の連続だった母、まず私は天で母に謝らなければなりません。でも救い主は私の悔悟の涙を拭い取って下さるでしょう。
 「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである…」(黙示14:13)。ブラームスドイツ・レクイエム終章が心の中一杯に迫って来ています。