ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

織田信長と聖書で謀反と叫んで死んだ人物、自ら王宮に火をつけて死んだ人物

 小林久三氏の『「戦国史」謎解き読本』を読みました。
 山川出版社の詳説「日本史」では、いわゆる本能寺の変の箇所を次にように書いています。
 「…信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、1582{天正10}年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀にそむかれて敗死した…」。教科書ですから淡々とした書き方です。
 しかし小林氏はこの事件を深く掘り下げて研究し、定説を覆そうとしています。
 この事件には多くの謎があります。明智光秀は本当に怨恨だけで信長を殺したのでしょうか?また本能寺に火を放って死んだとされる信長の死体が見つからないのはなぜでしょうか?その時備中高松城を水攻めにし、落城寸前までにしていた豊臣秀吉が、突如それを諦め、猛烈な勢いで中国大返しを行ない、姫路から京都山崎、天王山まで進出出来たのはなぜでしょうか?さらに信長殺害を知った徳川家康が大阪の堺から京都に向かわず、即伊賀越えを行って居城のある岡崎まで戻ったのでしょうか?
 小林氏は丹念にその謎を読み解き、秀吉も家康も光秀による信長殺害計画を事前に知っていたという結論に達しています。そして敗走途中の光秀は土民によって殺されたはずなのに、生き延びて徳川幕府の最大のブレーン「天海僧正」に成り変ったという奇想天外な説も紹介しています。極めて説得力のある筆致で、読む人々を魅了させます。
 しかもそこには佐藤優氏の本で有名になったインテリジェンス(=情報)活動が、伊賀の生き残りの忍者群によって行われていたという事実も明るみに出されています。この諜報活動を一番軽視して、伊賀者を大量殺戮した信長は、自ら墓穴を掘り、彼らを傘下に収められなかった秀吉は一代限りで自滅し、ただ一人家康だけが伊賀者を手中にし、このインテリジェンス活動で大勝利を得て、徳川幕府を開いたというシナリオ、実に面白いではありませんか。
 翻って聖書にも似たような戦いの事が書かれています。
 イスラエル王国が分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国になり、両者の戦いが絶えなかった頃の事ですが、ユダ王国の王アハズヤがエフーという人により暗殺されると、アハズヤの母アタルヤがしばらくの間ユダの王になりました。そして直ちにユダの家系にある王の一族を皆殺しにしてしまいました。彼女には信長と同じような狂気がありました。
 しかしこの大量殺戮でたった一人生き残った者がいました。それがヨアシュで、祭司エホヤダは彼を王位につけるべく、密かに軍隊を集結させます。そして主の宮の入り口でヨアシュを王と宣言しました。
 この騒ぎを聞きつけて出て来た女王アタルヤは、「謀反だ。謀反だ。」(列王第二23:13)と絶叫しました。光秀に急襲された信長のようです。
 しかし彼女には「是非もない」と言うだけの暇がなく捕縛され、主の宮を離れた王宮で殺されたのでした。
 一方イスラエルの王ジムリの場合、彼が戦車隊長であった時、王に謀反を起こし、王を殺害してトップの座に就きました。彼はやはり信長と同じような冷酷な人物で、王族から親類、友人まで一人も残さず虐殺しました。それをよしとしなかったイスラエルの民は、将軍オムリを王と宣言し、同時にジムリのいる王宮を包囲しました。
 それを目撃したジムリはもはやこれまでと覚悟し、「王宮の高殿にはいり、みずから王宮に火を放って死んだ」(列王第一16:18)のです。ジムリの残忍さ凶暴さが結局命取りになりましたが、信長の性格と一致します。王宮に火を放って死んだ事まで似ています。聖書の神は人間の持つ正気と狂気という心の二重性を余すところなく私たちに啓示しています。