ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

江国滋のがん闘病日記とその死

 江国滋氏の『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』を書棚から引っ張り出して再読しました。
 氏は1997年2月に食道癌の宣告を受け、僅か6ヶ月の闘病生活の後亡くなりました。62歳の若さでした。
 この闘病日記はその間の詳しい病状や食事の記述と共に、氏が趣味としていた俳句がところどころちりばめられ、結構読み応えのある書でした。
 私は昔大病をして、キリスト教信徒でもありますから、いつでも天に召される覚悟は出来ています。6回手術経験があり、痛みだけは苦手で楽に死ねたら良いなとは思います。とにかくその期に及んでばたばた騒ぐような見苦しい事態だけは避けたいと願っています。
 アダムとエバが罪を犯して以来、死というものがこの世界に入って来ました。誰もその厳粛な事実を知らないわけはありません。しかし普段からそれを意識して良い生き方を模索しているか、全く考える事もなく享楽にふけっていて、ある日突然死が迫って青くなるという生き方では、相当な「生活の質」の差が出て来るでしょう。
 江国氏の俳句を見ますと、やたら「酒」とか「ビール」といった言葉が出て来ます。そのように氏は酒をこよなく愛し、むしろ酒に「飲まれてしまって」食道癌という、最も深刻な病に陥ったみたいな感じです。
 「盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(コリント第一6:10)という聖書のみことばは厳しいです。信仰がなく、他に何も思い当たる事が無くても、酒に酔うという一点だけで、人は罪に定められます。その報酬が死という事です。
 ですから死の準備もなくいきなり宣告されると、人はあわてふためき、なぜ自分がという思いに駆られるでしょう。
 エリザベス・キューブラ・ロスという終末期医療の専門家は、死の受容に5つの段階がある事を書き記していて有名です。それによりますと、①否認と孤立の段階②怒りの段階③取り引きの段階④抑うつの段階⑤死の受容の段階となっています。それは必ずしもその順序とは限りませんが、江国氏の日記にはそうした事が読み取れる箇所が散見されます。
 書の冒頭の題代わりの俳句は「残寒やこの俺がこの俺が癌」となっています。そしてページをめくると、いきなり癌宣告の場面になります。その時氏は「ショックというより、一種の脱落感で、全身の力が抜けてゆくのがわかる」と記しています。「この俺がこの俺が」という言葉に、氏の万感の思いが込められています。まだ62の若さなのに、どうしてこの俺がという「否認と孤立」の段階でしょうか。
 その後の日記はむしろ淡々と進められていますが、昔入院中に読んだ渡辺淳一氏の医学的小説では、すさまじい「怒りの段階」が描写されていて、実際臨床をやった人の筆致はすごい!と思いました。
 でも宣告から6ヶ月という「死」をみつめる時間があまりに短かった為、この日記からはとても「死の受容」という心境は読み込めませんでした。
 それより主治医を始めとする医者の偽りを含めた励ましが、空虚な思いをさせられました。今ならホスピスとかいろいろ充実した終末期医療選択の道がありますが。
 まことに残念ですが、誰でも死ぬという絶対的な事実から故意に目を逸らせているこの時代、やはり昔からの諺「メメント・モリ=死を覚えていなさい」は貴重な言葉だと思います。