ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

浜矩子教授の『スラム化する日本経済』と聖書の例

 浜矩子氏は歯に衣着せない経済学者として知られており、『スラム化する日本経済』の前の書である岩波新書の『グローバル恐慌』を呼んで、これからの日本は本当に恐い!と思ったものでした。
 本書の冒頭でもグローバル恐慌の第二幕目が進行中であるという恐ろしい話から入っています。そこでは特に雇用情勢の悪化が、データと共に列記されています。そして発刊以来1年経過した現在、とりわけ若者たちの就職難の厳しさは全く変わっていません。大学は出たけれどもの時代で、数10社の面接を受けても落ち、やっと内定が決まったかと思うと、それが解除されてしまいます。そうなるともう行く先がなくなり、ところてん式に正社員の道から押し出されてしまい、大量の失業者が生み出されます。
 また中年以上で派遣切り(私の場合は派遣終了)に会い、ハローワークに通えたとしても、激しい争奪戦で紹介状ももらえず、すごすご引き上げる光景が当たり前になっています。ある日突然の会社員の解雇でも同じです。こちらは多分60歳までは大丈夫だろうと考え、早目にローンで家など購入してしまえば、返済に滞り、たちまちホームレスと化すのも珍しくなくなりました。
 ハローワークでは履歴書・職歴書などの書き方の指導もしていますが、いかに自分をうまく訴える事が出来るかが大事だと教えられます。次第に他人を押しのけ、自分さえ職業にありつければ良いという考え方になってしまいます。
 それを浜氏は「自分さえよければ病」という言葉で表現しています。
 そして氏は「そうした個別的自己保身行為が、結局はお互いにお互いの首を絞めあうことにつながっていく。ここが「自分さえよければ病」の実に恐ろしいところだ。企業や人々がそれぞれ自分にとって生き残りにつながる道を模索し、自分にとって合理的な解答を選択する結果、全体としてみれば皆が窮地に追い込まれてゆくのである」。全くその通りです!
 それを世に「合成の誤謬」と呼ぶ、と氏は言っています。
 かくて現在の日本は一昔前と違い、世界トップクラスの厳しい格差と貧困の国になり下がってしまいました。
 引き合いに出されている英国労働者たち、つまり建設労働者、病院の雑用係り、保育施設の補助的スタッフ、学校の給食係りといった貧困層の職場で、人が人として扱われずこき使われる最悪の雇用環境は、現在の日本のハローワークで貼り出されている職種と全く同じです。
 ルカ15:11−32はいわゆる放蕩息子の譬え話です。生前贈与をたくさんもらった一人の息子は、親元を離れ遠い異国の地で放蕩し、財産を湯水のように使い果たしてしまいます。彼はお金の「溜め」の大切さが全然わかっていませんでした。そこへもって未曾有の飢饉が突然生じました。こうなると人々はいっせいに「自分さえよければ病」に陥ってしまいます。この放蕩息子はいっぺんに貧困となり、食べるのにも困り始めました。ホームレス寸前です。
 でも誰もそのかつては裕福だったその息子の事など考えていません。やっと「つて」を得てネットカフェのような居所を確保する事は出来ました。しかし自分だけは楽をし、嫌な仕事をしたくないその主は、彼に豚の世話をさせます。豚は忌むべき動物でしたから、誰もしたくありません。でもその「最低の仕事」でもひもじい彼は飛びつきました。
 しかしです。合成の誤謬がここでも作用します。みんなが食料に困っていますから、誰も彼の事など顧みている暇がありません。彼は賃金どころか、豚の食べる豆類でさえ、口元にする事が出来なくなりました。ただ働き同然となりました。
 もう餓死寸前です。「おにぎり食べたーい」といって餓死した人の窮状にほぼ近づいています。
 そのぎりぎりのところで彼は「我に返った」とあります。彼の父は今も富裕で、放蕩息子が自分の元に帰って来るのを心待ちにしています。そうだそこへ帰ろう!そこにはセーフティネットが張り巡らされている…。
 よろけながら、擦り切れたサンダル、ボロ一枚でやせ細り、父のみもとへトボトボ向かう放蕩息子。
 それを遥か遠くで見つけた父は、何をしたと思いますか。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)。
 それがある高名な説教者の言われた「走り寄る神」なのです。
 こうして放蕩息子は真面目になり、家の者(今日の教会員たち)は彼を暖かく迎えました。
 今日主イエス・キリストをかしらとする教会が、こうした貧困者たちの「逃れの場」になる事を決して放棄してはならないと思います。まず霊的救い、そして世にあっては主の為に生きるべく奉仕する事、そこに不思議な生きるべき道が開かれます!