ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ぼんやり過ごす時間の大切さ

 辰濃和男著『ぼんやりの時間』を読みました。これは現代の超多忙な生活を送っている方々にはお勧めの本です。
 辰濃氏はこの本のあとがきで「ぼんやり」という言葉が現在否定的な意味で使われている事を、辞書の定義を引用しながら述べています。しかし氏はその事をあえて承知の上で、こうした時間を持つ事の大切さを説き、第一章で哲学者串田孫一氏のエッセイから、「ぼんやりしている時間は非常に大切で貴い」という言葉を引用し、本書の題に用いています。
 そして各章において、それを礼賛する人々の名前と著書を挙げながら、その事実を確かめて行きます。そして串田のみならず、詩人岸田衿子、小説家池波正太郎、詩人高木護、H・D・ソロー、深沢七郎等々多くの「ぼんやり礼賛者」たちを引き合いに出しています。
 あてのない散歩、深い静謐な森の散策、遠い地への一人旅、地の果ての露天風呂でゆったり時を過ごす事、そしてどこにあっても音楽家は作曲の為に、聖者は祈る為に、ひとりの時間を過ごします。
 そして最後近くで英国の哲学者、数学者だったバートランド・ラッセルの主張を紹介しています。それによりますと、「勤労は神聖であり、働くことはすばらしいものだという考え方は、支配者、富裕階級が、働くものにそう思いこませるためにいいつづけ、その企みが一般にも広がった」とあります。ですから「閑」は昔少数の特権階級だけのものでしたが、時代の進展と共にそれが働く人々の「権利」ともなりました。この「ひま」をとる事こそ、心身を休ませ、人間らしい生活を取り戻す事になるというラッセルの主張は、現代でも十分に通用するはずです。
 でも今日のグローバル経済の下、正社員は勿論、非正規雇用労働者たちが生活の為、その「ひま」を確保する事が出来ません。そしてどんどん疲労が蓄積してゆきます。本当に少数の豊かな人々を除き、皆あくせく働き、将来の展望さえ見えない世の中になって来ました。経済が破綻し、ホームレスになった人々は、確かにこれまでの猛烈な仕事からは解放されたでしょうが、福祉の貧しさから「安全な居場所」「一日の疲れをゆっくり癒す家」がもう望むべくもなくなりました。
 私にせよ生活保護水準より遥か下にありながら、このブログを書ける時間がとれる事を感謝しなければなりません。
 それは誰に対してでしょうか?救い主イエス・キリストです!
 イエスご自身は地上でのご生涯の間、ホームレスの状態で忙しく働きながら、十字架へ向かって行かれました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(=キリスト)には枕する所もありません」(マタイ8:20)。
 しかしキリストはそのご生涯の間、頻繁に「寂しいところ」へ入って、ひとり熱心に祈られました。
 「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」(マタイ14:13)。この寂しい所と訳されたギリシャ語エリモスは荒野、寂しい所のほか、一人でいる場所、人々のいない所などの意味があります。
 パレスチナの地は誰も住まないゴロゴロした岩場が多くあり、イエスはその場所にひとりで行かれ、静寂な時を天の父なる神と、祈りを通して対話しておられたことでしょう。
 またイエスに従う弟子たちにもその事を勧められました。「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」(マルコ6:31)。
 これは私たちに対する勧めでもあります。イエスを信じる人は、たとえ多忙であっても、ひとり部屋にあって静かに思いを巡らし、祈る事が出来ます。そしてまた次の日、新たな力を得て都会の喧騒の中に入ってゆけます。