ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

自己コントロール社会の陥穽と真に人格を変えられる方

 宇野重規著『<私>時代のデモクラシー』を読みました。何となく総花的な感じで印象に残りませんでした。失礼!
 現代では<私>と<私>が見事に分断されていて、それを結び付け<私たち>とし、そこで生じる諸問題を解決するようなデモクラシーは実現可能なのでしょうか?
 表紙の裏にあった短い文章からちょっと興味を抱いて読み通したのですが、あまりすっきりしませんでした。
 その中で少し印象に残ったのが、第二章にある自己コントロール社会の陥穽という項でした。
 「…今日において、人々が日々考慮しなければならないのは<私>です。<私>を見つめ、絶えずチェエクして、コントロールすること。これができない人間は、自己管理能力の欠如を非難されることになります」。
 こうした風潮の中で、例えば小泉内閣の時の人材派遣会社ザ・アール奥谷禮子のように、自己管理を怠り過労自殺した人は「自己管理の問題。他人の責任にするのは問題」といった情け容赦もない極論が出て来るわけです。実際には過労自殺を企業の責任とする裁判判決がぼちぼち出ているのではないでしょうか。
 しかし分断されている<私>と<私>が繋がって<私たち>になれるほどの力を貧困層は持っていません。60年、70年代の政治闘争のような連帯的行動はもう望むべくもありません。しかしNPO法人もやいの湯浅誠氏のように、非暴力で地道に岩盤に穴を穿つ活動を行い、自己責任論に対して団結する小集団が各地で起こされてもいます。
 宇野氏はこの自己責任論を増大させる要因として、どの書店に行っても「自己啓発書」なるものが、中堅サラリーマンの間で今なお良く読まれている事実があることを挙げています。いわく「行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。
 ベストセラーとなっている「勝間本」のほとんどは、こうした自己啓発書です。
 そして彼ら会社員たちは必死になって自己を変えようと努力し、ダーウイン進化論でおなじみの「適者生存」へ向けて、激しい競争を強いられてゆきます。非正規社員その「他」に劣らず、正社員でさえ自己啓発に失敗すれば、すぐ解雇されてホームレスになる場合もあるのです。
 生き残った人々も絶えず「自己点検」「自己評価」を行い、「自分はこのような商品です」と、外部に表明してゆかなければなりません。
 「人間」は「人間でなくなり」、代替可能な「商品」に過ぎなくなりました。
 それから先の宇野氏の論理の展開は、やたら一般の人々に分からないカタカナ語や、あまり知られていない思想家たちがどんどん登場し、私のごとき人間には読むのが苦痛です。
 では聖書は人間の人格の変貌についてどう言っているのでしょうか。それは明らかです。罪深い人間は自分で自分を変える事が決して出来ません。
 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ17:9)。
 「…地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く…」(創世6:5)。
 ですから人の心を変えるのは、ただお一方神の聖霊のみです。「主の霊があなたの上に激しく下ると…あなたは新しい人に変えられます」(サムエル第一10:6)。
 この西欧文化では知られている(といってもこの悪い時代、人々は聖書の教えから離れています)事実が、日本では全く理解されていないのは残念です。