ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

画期的な裁判員裁判による全面無罪判決と聖書

 6月22日の夕刊で、千葉地裁覚せい剤を輸入したとして罪に問われた被告の裁判印裁判で、無罪の判決を言い渡しました。
 被告の主任弁護人は「画期的な判決で、裁判員に敬意を表したい」と述べています。
 なぜ画期的なのでしょうか。
 例えば元判事で現在は弁護士として活動している秋山賢三氏は、『裁判官はなぜ誤まるのか』という本の中で、「我が国では刑事裁判の有罪率は異常というほどに高い」と述べ、1998年、99年において検事により起訴され「被告人」とされた者は、99・9パーセント有罪になったと言っています。つまり起訴=有罪という図式でした。
 なぜ有罪にしてしまうのかについては、秋山氏は諸々の理由を挙げていますが、裁判官は「被告人という人間の真の姿を正確に把握しようとする「目」と「視点」に欠けているという事も、その一つになるでしょう。
 そのような状況で2009年5月に全く新しい「裁判員制度」というものが導入されました。
 それについては理科系出身という異例の裁判官である井上薫氏や、最近の検察組織の問題点を執拗に追求している元検事出身の郷原信郎氏などが激しく反対していました。特に郷原氏はこの制度が発足すると、「この国にとって大きな悔恨を残すことになりかねません」とまで言い切っていました。
 しかしそれから1年経過してのこの千葉地裁の裁判ですが、ここでは裁判員の常識的な判断力と、被告の真の姿を把握しようとする努力が、どうも検察官の論理より勝ったようです。その結果を受けて全面無罪が言い渡されたのは、今回が初めてだそうです。
 こうした結果を見ますと、井上氏や郷原氏の尤もなと感じる見解があるにせよ、まだしばらくこの裁判員制度を見守りたいという気持ちです。
 では聖書の場合はどうでしょうか。裁判官は勿論聖である神です。
 エリートとして「純粋培養」されたような人間にすぎない裁判官に対して、神である裁判官は全知の方です。「人の心の中を知っておられる神」(使徒15:8)。私たち人間は人の心の中を見抜けませんが、神にはそれがお出来になります。そして全ての人の心を探られた結果は、以下の通り。
 「善を行なう人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:12)。つまり人間は神の目からすれば、99・9パーセントではなく、100パーセント有罪なのです。
 ところがです。100パーセント有罪なら、神の聖なる基準からすれば皆「死刑」です。そこで憐れみ深い神は、この罪の結果としての死に対して全く無力で嘆き悲しんでいる罪人を何とか助けようとして、救い主である御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。
 それはこの御子を信じ、己の罪を悔い改める人に対して、「その信仰を義とみな」(ローマ4:24)す為でした。この「みなす」(ギリシャ語ロギゾマイ」という言葉が重要です。神は100パーセント有罪の者を、ただ救い主イエス・キリストへの信仰の一点において、100パーセント無罪と見なして下ったのです。まだ肉体を持っている以上罪を何度も犯す信徒ですが、それでも神の目からはその信徒は尊い者で、永遠のいのちという賜物を与えて下さいます。
 そんな愛と憐れみと恵みに満ちた神が他にいるでしょうか?
 しかし悲しい事に、そうした無罪判決を受けているクリスチャンは、日本では0.01パーセントしかいません。