ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

有明海の独特な柔らかい泥干潟と聖書で泥につかった被害者の例

 朝日新聞9月30日の夕刊で有明海の現状が報じられています。
 この欄に掲載されている写真ですが、佐賀県鹿島市で「体験干潟」というものを開催しており、全身泥だらけの母子と思われる二人が写っていました。
 ムツゴロウで有名な有明海独特の軟らかい泥干潟は、報道によりますと、何と「見かけによらず泥臭さがほとんどなく、感触もクリームのようにすべすべしている。思い切って泥に入ると、その気持ちよさがくせになる人が多い」そうです。グーグル画像から別のものを拝借。

 こうした光景はよく「泥田祭り」などの報道で見かけますし、私も幼い頃泥で遊んだ経験があります。
 この泥の成分ですが、「きめ細かい粘土粒子」で、阿蘇山噴火により降り積もった土砂が風化して出来たものだそうです。ですからヘドロとは異なり、少々それが遊びで口に入ったとしても問題はなさそうです。
 写真の泥の光沢をしげしげと眺めながら、どこかで見たことがあるなと思案していたら、思い出しました。茨城にいた時隣りの陶芸家が轆轤で粘土を成形していた時の、あの軟らかい粘土の「つや」でした。若い陶作りは本当に楽しそうに、その粘土の塊を様々な器に仕上げて行きました。
 それらを考えますと、人は硫化水素などといった有害で強い臭いのするヘドロでない限り、普通の泥に対して親近感を覚えるものだなとつくづく思いました。
 なぜでしょうか?創世2:7をみますと、「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」とあります。聖書を信じる人であれば、人間が神により「土地のちり」から造られた事を真と受け止めています。この「土地」と訳された言葉は、ヘブル語のアダマーで、そこから最初の人に「アダム」という名がつけられたようです。また「ちり」と訳された言葉は、アファールです。これは他にも灰とか乾いた土といった意味があります。有明海の土砂風化で出来たものと共通しているようです。だから人は自分がそれによって造られた土や水を吸った泥に親しみを覚えるのでしょう。
 ところで有明海の泥干潟ですが、分厚い泥の層はすぐに腰まで埋まるほどになるそうです。それを楽しめた干潟体験者は幸いですが、聖書ではそうでなく、泥に埋まって苦しんだ人の例が載っています。その被害者は預言者エレミヤです。
 「そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ」(エレミヤ38:6)。
 この穴にあった泥の深さは分かりませんが、記事から彼がすぐ死んだ事など書かれておらず、後で引き上げられた事を考えますと、たぶん有明海の泥の深さくらいだったのでしょう。彼は主のみことばを大胆に宣べ伝えたので、迫害を受けて穴に投げ込まれたのでした。たぶん聖書の時代の泥は花崗岩が風化して出来た真砂土(まさつち)だったと思われます。ヘドロなど全く考えられません。そこで彼は耐え(しばらくは泥遊びをして、いや泥の中でもがいていたかも)、飢え死にする前に助けられたのでした。
 泥について考えながら、私たち人間を造られた神を信じることが出来る人が現われたら幸いです。