ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

小島寛之著『世界を読みとく数学入門』を読む

 図書館で上記の本を借りて読みました。数学は昔から好きでありながら、高校時代勉強しなかったので、いわゆる受験数学は苦手(テクニックが要求され、限られた時間で解かなければならない為)でした。しかし上記の本は整数、分数、虚数などについて、不思議な現象を小島先生が取り上げてくれて、まことに興味深く読みましたが、全てを理解出来たとは言えません。
 その中から2つだけ印象に残ったものを取り上げてみます。聖書との関わりで。
 1完全数。これは「自分自身を除いた約数の和が、自分自身になるような数」のことである、と小島准教授は言っています。その最初の完全数は6です。6の約数で自分自身以外のものは、1,2,3であり、これらを加えると自分自身の6に戻るからです。続けて小島准教授は「紀元前のギリシャの数学者が、これを完全数と呼んだのは、これが『世界』を表現しているかららしい。1は神、2は男、3は女、これを合わせると世界を表わす6になり、6には神、男、女のみが部分として存在する、そう考えたのである」と言っています。へえ〜と思いました。どうして神と男と女で完全数になるのでしょうか。
 しかし聖書では違います。7が完全数です。新キリスト教辞典を見ますと、「『7』は完成、成就、完全にかかわることを表す数として用いられることが多い」とあります。創世記の第1章では、神の創造のみわざが六日間にわたって記され、第2章の2節と3節にはこうあります。「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」。つまり神の創造のみわざは7日間で完了しました。それで神はその第七日目を祝福されたのです。従って人間の生活も7という数を完全数として区別しています。安息日は週の第7日目、安息年は第7年目というようにです。
 それで7に一つ足りない数は不完全数となります。足りないという点では、人間を指して用いられている箇所があります。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし…」(詩8:5)。hateheiの666はヨハネ黙示録にありますが、私自身は神にいつまでも追いつかない者という意味で勝手に用いています。
 2小島准教授による分数の章では「あれれ?」と思う話が出て来ます。
 「村の長者が、3人の息子に財産を残した。遺言は次の通りである。『長男は全部の2分の1を取れ、次男は全部の3分の1を取れ、3男は全部の9分の1を取れ』ところが残された財産は馬が17頭であったので、息子たちは困り果ててしまった。17は2でも3でも9でも割り切れない。かといって、生きている馬を2つや3つに裂くわけにはいかない。思案に暮れた3人は、村の長老に相談をした。長老は、自分の馬を1頭連れてきて、息子たちにこう言った。『さあ、わしの馬を加えて、遺言通りに分けよ』」。これですと18頭になりますから、長男は9頭、次男は6頭、3男は2頭を得る事が出来ます。全部足すと17頭で1頭残りますから、長老はその馬を連れて帰っていったという話です。不思議に見えますが、答えは本を読んでのお楽しみ。
 聖書でも生き物を裂く事が出来ないという例があります。話は長くなるので、かいつまんで述べてみます。昔ソロモンという知恵のある王がいました。彼のもとに2人の遊女が来て、互いに反する主張をします。つまり2人は同じ頃子どもを産んだのですが、どちらか一方の子が死んでしまいました。そこで2人は生きている子を自分のものだと主張します。そこでソロモン王は剣を持ってこさせ、子を半分に断ち切って、それを2人に渡そうとします。すると生きている子の母親は、その子を哀れに思い、もう1人の女に譲ろうとします。でも死んだ子の親はソロモンの言う通りにして欲しいと願います。そこで王は子を譲ろうとした女が生きている子の実の母親だと宣言したのです(列王第一3:16〜27)。どうです。面白かったですか?