ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

漫画家故杉浦日向子が惚れた江戸の時間の過ごし方

 『うつくしく、やさしく、おろかなりー私の惚れた「江戸」』は、2005年46歳の若さでがんに倒れた杉浦日向子さんのエッセイを纏めたものです。彼女は卓抜な想像力をもって江戸時代のあらゆる事物についての漫画を描いていました。江戸人の描写で彼女の右に出る人は、おそらく現在でもいないのではないでしょうか。まさに江戸の町に行って観察して来たものをすぐ漫画にしたというほどリアルなものでした。
 私にしても父親の家系からすれば「江戸っ子」の端くれですが、それはむしろ妹に受け継がれ、こちらは沼津生まれの母親のほうに似てしまい、およそ杉浦さんの考える江戸っ子とは程遠いです。でも杉浦さんの漫画やエッセイを通して、江戸の生活には憧れを持っています。キリシタンは弾圧されましたが。
 なぜ江戸の生活に惹かれるのでしょうか。それは現在の私たちの生活が相当江戸との隔たりを持っていて、ふさわしくないところがあるからです。
 かつて和辻哲郎の『風土』を読んで日本がモンスーン型であるという事を知り、そのような気候風土であるなら、それに適していた生活は、まさに江戸時代にあったのではないかと考えてしまうのです。特に夏の炎暑と砂漠型にない湿気を感じる時、江戸時代の衣食住の様々な工夫がぴったりだったのではないかと思えます。現代において夏にきちんとネクタイを締め、黒ずくめの洋服なんてのは、江戸と真っ向から対立します。締め切った部屋でクーラーをがんがんと効かすのも、何だかおかしい。それにメタボを増進させるような凝った食事もです。それらはすべてアンチ江戸ではありませんか。
 そして杉浦さんの遺作ともいうべき上記の本の中にあった、江戸人の暮らしのルールもなるほどと思いました。江戸は「全国各地からいろんな人が来て住む多国籍都市」である故に、①生国は問わない②年齢を聞いてはいけない③来歴を問うてはならないという不文律があったそうです。①は関西弁を話す人々でも東京では受け入れられていますし(その逆は必ずしも真ではない)、②も特に男性なら現在でも心得ているでしょう。しかし③はどうでしょう。結婚しているの?子どもはいるの?といった詮索は、現在の東京ではタブーを解かれてしまっているのではないでしょうか。
 特に私のように「貧乏暇なし」で忙しい人間には、江戸時代の「時」の過ごし方に魅力を感じます。
 江戸時代は時計など勿論無く、日の出から時が始まり、日の入りまで最小30分単位で事が進められ、現在のような分刻み、秒刻みといったノルマは一切必要なし、極めてルーズな過ごし方になります。太陽の傾き加減で今時間はどれ位か検討をつけていたそうです。それゆえ江戸人は「時間がない」などとは決して言わなかったそうです。「時間は無尽蔵にある…そういう感覚なのです」。「江戸の人たちにとってのよい時間、これは『ああ,おいしかった』とか『ああ、うれしかった、面白かった』、つまり感動があった時間、何か感じた時間がとてもよい時間として彼らの記憶に残ってゆくのです」。
 貧しくても極めて豊かな時間を江戸人は過ごしていたようです。杉浦さんはそうした事を訴えて亡くなりました。
 ところで聖書での時間感覚はどんなものだったでしょうか。いろいろな時が出て来ますが、一つだけ以下に例を挙げておきます。
 「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(ペテロ第二3:8)。
 これを見ますと、私たち人間には千年は極めて長い時間ですが、無限の神にとっては極めて短い時間です。私たちは草の花のようにはかなく散ってしまう存在ですが、神はそうした豊富な時間の間に定めたみこころを達成されます。1日のうちに行なおうが、千年間で行なおうが大した違いはありません。ですから神に背く邪悪な者の刑罰は、決して遅れる事はなく、誰もそれから逃れる時間を持てません。しかし信徒の場合は、いずれ神の似姿とされますから、悠久の時間の中で神と同じ時間感覚になります。江戸人のようにルーズではありませんが、豊かで感動続きの世界に導き入れられます。永遠のいのちという賜物を頂くからです。