ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

中島義道の『うるさい日本の私』を読んで思った事

 中島氏は私と同じ1946年生まれ、東大で哲学を専攻しています。一風変った本を多く書いていますが、この『うるさい日本の私』もそんな感じです。
 冒頭の前書きに「スピーカー音恐怖症」という「病気」にかかっている事を宣言しています。
 確かに現代は騒音だらけです。私が下車する駅の階段を降りた途端、パチンコ屋の極めて耳障りな轟音が聞こえ、私は足早にそこを過ぎ去ります。もし私がその隣に住んでいたら、夜も寝られずやはり中島さ氏と同じように騒音病になってしまうでしょう。
 のっけから中島氏は電車、バス、公共機関などありとあらゆる場で発せられるうるさいスピーカー音に対して、強烈な訴えをしています。騒音を出している責任者たちに、哲学者としての理詰めな抗議をしています。その中にはなるほどとうなずかせるものもあります。
 「この国の『善良な市民』は公的権力の発する『音』にはきわめて寛容であるが、私人が発する『音』にはきわめて不寛容なのだ。それに加えて、『文句を言うこと』自体を嫌うという姿勢がある」。これは中島氏の言いたい事の本質を衝いているような言葉です。
 ですから善良な市民でない中島氏は、騒音を出している人々に対して文句を言い続けています。そしてそれは時に「うるさい!」という怒鳴り声になり、相手次第では喧嘩になる事もあります。
 それに対する反応は無言であったり、慇懃な断りの返事であったり、「ひとに文句を言う前にまず自分のことを考えてみろ」といった反論です。
 ですから中島氏はますます激昂して、文句をエスカレートさせて行きますが、どうもそのあたりを読むと、私のような善良な市民には違和感を覚える場面が出て来ます。相手に対するあまりにも寛容と忍耐と愛のない攻撃には、「異常さ」を感じてしまうのです。
 確かに騒音はいやですし、それを聞かされ続けられるのは「拷問」に等しいでしょう。しかし私ならそうした場合への対処の心得みたいなものもあります。
 それはどこから来ているかと言えば、人生の指針である「聖書」でしょう。うるさいという言葉を検索して一箇所見つけました。
 「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(コリント第一13:1)。
 これは伝道者パウロのことばです。ここで異言(ギリシャ語グローサ)とは、今は廃れたものですが、一般に聖書の時代「特別な人々が話す特別な言語や方言」といった説明があります。それはとにかくある特別な人が特別な言葉を相手に対して発した場合、もしその人に「愛=アガペー…犠牲的な愛という意味合いがあります」がないなら、相手はやかましいどらや、うるさいシンバルと同じように感じるでしょう。
 それは私たち信徒でも同じです。うるさい音を出している相手には、愛と寛容と忍耐を尽くして、味のある言葉で諭すという事でしょう。
 それをも中島氏が退けるなら、キリスト教の「愛」を持たない独善的な一哲学者として、神が裁かれるでしょう。勿論騒音源となっている愛のない未信徒も同様です。