ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

零細翻訳会社を経営する平川克美氏の経済論

 平川克美氏の『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』と『経済成長という病』の二冊を図書館で借りて読みました。
 普通経済関係の本を読むのはあまり面白くありません。やたらグラフや統計表などが出て来て、その解説を読むのが退屈であるし、経済問題への取り組みも学者によって様々であるし、時に難しい理論も出て来るから、どうしても馴染めないのです。
 しかし平川氏の上記2冊は文句なく面白かったし、付箋がたくさんあるという事は、普通の経済学者たちの分析とは異質な、いろいろ考えさせるところがあったからです。教会へ通う片道2時間10分の電車の往復で2冊読めたからには、この著者の何かに惹かれるものがあったからでしょう。それはたぶん会社の経営者でありながら、所謂勝ち組の立場にはなく、弱肉強食の時代の弱者に視点を置いた暖かいまなざしを感じたからだと思います。略歴を見ても経済学部出身ではなく、理工学部という事ですから、そちらの知識も加わって異色な経済入門書になったのではないでしょうか。
 平川氏も言うように、この2冊どこから読んで行っても、理解出来ます。各章が独立していながら、著者の意図が一貫して分かるようになっています。
 多少わかりにくいカタカナ語が時折出て来る他は、平明でわかりやすい文章です。そして貧しい人々が生み出される背景についての考察が鋭いです。
 例えば『経済成長という病』では、グローバリズムについて、「市場の解放というよりは、市場の固定化であり、世界の分業化であり、富める者を強化し、貧者をさらに貧しく固定化する差別化である」とずばり指摘しています。しかしそれを押し進めて来た米国は、現在明らかに「退化」の方向に向かっています。
 「私たちは経済成長が人間の社会の繁栄と進歩につながると信じて、競争を続けてきた。しかし、その努力を続ける中で私たちの社会は少しでも進歩したと言えるのだろうか。むしろ、退化したものを直視することを避けるために、ラットレースのような競争を続けてきたのではなかったか…ほんとうは退化を生きてきたのかもしれない」。ここにはダーウイン以来の進化論大合唱に対する異議申し立てが感じられます。私たちは第一章の題である「経済成長という神話の終焉」(これが氏の一貫した現代への観方です)をはっきり認めるべきではないでしょうか。『移行期的混乱』の中でも、「経済成長神話は希望であって、正しい認識ではない」と述べ、だから神話の崩壊に伴い、移行期的混乱がしばらく続くと氏は見ています。この惨状の中、未来に向けて氏は「競争社会というルールを選んだ社会が、そこから逸脱して、職が無く、住む家が無く、明日に対する希望が無いものに対して、救済の手を差し伸べるべきか自己責任として放置すべきかは社会全体の設計に関わる政治的課題である」と提言しています。そして政治経済のトップに対する苦言は、「問題なのは、成長戦略がないことではない。成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ」ということです。
 聖書では実は平川氏の主張は神のみこころであったと思います。例えば「ヨベルの年」(レビ25:8−55)ですが、それは「国中のすべての住民に解放を宣言する」年です。ここでは成長神話や貧富の格差の問題が解消されています。その年「あなたがたは互いに害を与えてはならない」と主なる神は特に厳命しておられます。狙いは勿論経済成長や貧富の差を恒久化させない為です。この年とりわけ貧者は、ルツ記の「落穂拾い」に象徴されるトリクルダウン(=経済利益が上から下にしたたり落ちるという考え方)が極限の形で成就します。
 かつてキリスト教大国であった米国は現在大半が未信仰者であり、金信仰者になり下がり、この聖書の教えを無視したが故に、没落は必至であるように見受けられます。