失職、失望、疲労、自殺への道と聖書の神
年の瀬も押し迫った頃、朝日新聞では「孤独の国」という題の連載コラムが始まり、毎日それを読みながらため息をついています。
理由はあまりにもその内容が暗く、読み終えた後滅入ってしまうからです。
第三回目の見出しは「失職生きる力も消えた」でした。記者は浜松市の木造アパートで自ら命を絶った61歳の男性のことをルポしていました。
このKさんには資格や免許がなく、工場を転々としながら生活して来たのでしょう。最後に失職してからは頻繁に通っていたであろうハローワークでも、仕事が見つかりませんでした。
こうした場合ケースワーカーが動いてくれて、生活保護という最後の手段が考えられますが、Kさんの場合白いセダンの愛車を手放す事が出来ず、保護申請をしませんでした。相談に乗った市民グループの人は、彼には「年金も預金も家族もない。彼には車が唯一の財産だった」と言っています。
浜松市内の工場ですから、おそらくトヨタ浜松の関連工場勤務中に入手した車だったのでしょう。白のセダンは売却の時も比較的有利だと思いますが、彼は乗っているうち、それだけが自分の生きがいだと思っていたでしょう。車というモノだけが。それで手放せなくなってしまったのです。
しかし生活保護と引き換えに車を放棄していたら、自殺まで行かなかったのではないかとも思ってしまいます。それは「異見」でしょうか。誰でも命と引き換えにしても守りたいと思うほどの「物神」があるのでしょうか。
結局Kさんは失職、失望、疲労の末にアパートのベランダにロープを掛け、「もう疲れた。仕事もないし、金もない」という遺書を残して自殺しました。真に残念な事です。
浜松では2008年に比べ、2009年の自殺者は2割も増えて165人、だいたい中高年の男性だそうです。
振り返って私の場合でも、2月に失職して以来、ハローワークに5ヶ月位通った挙句、もう諦めて特殊な資格を得る為、独学で必至に頑張っています。世の生き方であれば、将来に絶望し、このKさんと同じ道を歩んだかも知れません。決して他人ごとではありません。
でもそうした試練の中、どうして希望を繋ぎながらやっていると思いますか。それは聖書の神を信じているからです。
「聖書はこう言っています。『彼(=神である救い主イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない』」(ローマ10:11)。
救い主イエス・キリストを死者の中から甦らせられた神は「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(ペテロ第一1:3)。
かつて罪のうちに望みを断たれ、死ぬのを待つばかりになっていた私ですが、神はご自分への信仰をよしとし、新たな人生へと生まれ変わらせ、生ける望みを持たせて下さったのです。これからも試練は多くありますが、失職、疲労にも関わらず、希望を与え続け、自殺心も持たせられないほどの恵みを与えて下さる生ける神に望みをおいて進みたい。心の通わない、対話のないモノを物心崇拝する人なら、きっと行き詰まります。