ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

新年にあたり思う事

 新しい年は穏やかな好天の下で迎える事が出来ました。しかし昨年12月から思わぬ仕事が舞い込んで来て、なんやかんやと31日まで忙しく、掃除も新年までずれ込んでいます。特に年賀状ソフトが古く、比較的新しいプリンターがミスばかりするので、今回一部を除いて手書きとなり、31日の深夜までかかってしまいました。
 この多忙さと必要なものを得る為のお金の事を考えると、伴侶がおらず、私を生んで愛してくれた母も既にいないので、思いはひたすら天に向かいます。
 暮れのICR(=米国創造研究所)サイト(英文)には、既に天に召された創造論創始者とも言うべきヘンリー・モリス博士の「すべてが新しくされる時」という短い論文が載っていました。
 ほとんどが聖書の珠玉のみことばから引用され、博士の言葉は極めて少ないです。みことばは共通で著作権も何もないので、多少引用させて頂きます。
 この「すべてが新しくされる時」というのは、ヨハネ黙示録21:5に出て来るもので、文章は受動態ではなく、主語を神とする能動態です。「わたしは、すべてを新しくする」という事です。動詞は現在形が使われていますが、将来のいつか必ず起こる事です。
 「万物の改まる時」(使徒3:21)も同じ意味合いで、終わりの時にキリストの裁きがあり、その後物事が以前の状態に回復する事です。これは人間の始祖アダムがまだ罪を犯す前の、神との豊かな交わりがあった時と言えるでしょう。違うのはもはやその万物が改まった時に、この世のあらゆる「罪」が消滅し、再び悪魔に誘惑されない状態に入るからです。
 テトス3:5では「新生と更新」という言葉が出ており、前者はパリンゲネシア(パリン=再度とゲネシス=生まれるから成る語)で、まさに新生、つまり私たちが罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じた瞬間、私たちの心のうちで生じる全く新しい変化の時の事です。既にその時から神と私たち信徒との関係は、罪を犯す前のアダムと同じで、聖書のみことばを通し、自由に神との交わりが出来ます。
 ところが後者の邦訳が「更新」となっています。これはどうもイメージがよくありません。新明解国語辞典では「従前の物事に代わって、新しくなること」とありますし、広辞苑では「あらたまること=改善されること」とあって、何か以前の事柄を踏まえての事のような意味合いがあるからです。もっと踏み込めば「進化論的な意味合い」です。
 原語ギリシャ語はアナカイノーシスで、辞書を見ますと「質的に新しくなること」です。上記黙示21:5では似た言葉カイノス(新たなという形容詞)が使用されています。これもまた「質的に見ても新しい」という意味です。これはただ信徒だけが享受するもので、神がその行為者です。
 それに対して私が疑問を抱く「更新」という言葉には、「一時的に新しくされる」というニュアンスがあります。科学の仮説も、新発見により「更新される」といった具合です。それはまさにこの世の事柄であり、ギリシャ語でも別にネオスという言葉があるって両者が区別されているくらいです。ですからこの世の一時的な「すべてのものは、衣のように古び廃れる」(ヘブル1:11)わけです。
 その後は「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示21:4)というみことばの成就です。
 私も世の中にあって労苦が絶えませんが、それが成就される事を夢見て、毎日を励んでいます。