ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

香山リカ「しがみつかない生き方』を発端とする勝間和代との「自己啓発」論争

 精神科医である香山さんが1年ほど前に出した「しがみつかない生き方」は、いろいろ参考になることがありましたが、その終章に「<勝間和代>を目指さない」という題のものがあり、それを発端としてマスメディアが対談を企画したりした為、女性同士のバットルとして話題を賑わせました。
 今回この本を読んで、やはり香山さんのほうに軍配を上げます。
 なぜなのか。二人の争点の中心は「自己啓発」という言葉に焦点が合っていると考えます。
 では「自己啓発」とは何か。サイトの「自己啓発」JPを見ますと、「自己啓発とは、自分自身の能力を自分の意思で開発する行為のことです」と明快に書かれています。
 私が青春時代を送ったのは昭和30年代、遊びも学びも黄金時代だったと言えるでしょう。遊びを通して友人との関わり方を自然と身につけ、学びでは中勘助の『銀の匙』ではないけれど、中学時代ほのかに恋心を抱いた「勉強の出来るひと」がいて、そのひとに追いつく事によって交際を申し込もうと、必至に勉強を始めた事を覚えています。その時は自分も確かにガンバッタけれども、良い先生方が私を見出し、徹底的に勉強面で鍛えて下さいました。当時非情に貧しかったけれども、そうして鍛えられれば誰でも向上出来たのでした。それは決して勉強面ばかりではなかったと思います。クラスの粒はばらばらでしたが、50年以上経過して、現在も行なっているクラス会では、それぞれの分野で立派に成長し、一人一人味わい深いものがあります。
 それに対して米国の新経済政策が全地球に及ぶようになり、熾烈な「競争」が行なわれるようになると、いかに自分をよく見せるかという事に心が向かい、上記のような「自己啓発本」が書店の一角をどっしりと占めるようになりました。ちょっとめくってみても、同じような無味乾燥な内容のものばかりです。
 しかし今時の若者は「最適者生存」(悪しきダーウインの考え方)の為に、他は犠牲にしてもそうした自己啓発本に飛びつかざるを得ないのでしょう。
 でも待って下さい。自己啓発の上記定義では「自分自身の能力を自分の意思で開発する行為」とあります。香山さんも心配しているように、そんな事が出来る人は世の中には、そうざらにはいないでしょう。また香山さんによれば、勝間本には競争に参加できない、或いは競争から脱落した人の事が出て来ません。当然勝間さんはそうした社会的弱者の事など考えていないのでしょう。誰でも自己開発で能力を高められると思っているからです。
 現実はそうした本により成功した人の数はごく僅かではないでしょうか。むしろ競争から脱落し、失望して自らいのちを断つ人の数のほうが多いのではないかと思います。私自身だって同じ境遇ですが、一つ違うのは、「自分自身の能力を神のみこころで開発されること」、つまり他者(=神)啓発に完全に頼っている事です。その神が私たち信徒に「練られた品性」を生み出して下さるのです。使徒パウロは以下のように書いていますが、これは自己啓発ではありません。
 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3−5)。
 聖書によれば自己啓発は危険な考え方です。それは自分を過信させ、自己中心とさせ、神から自分を完全に遠ざけてしまうからです。ところが神はご自分に全てを委ね、頼る人の品性を練りきよめて下さるのです。自己啓発者を「忌み嫌われます」。